月次アーカイブ: 7月 2016

私(加古藤市)は、今にも飛び立ち行きそうな逸なる心を押し静め、熊田画伯の御都合に合わせ、四月六日の朝九時四十三分広島駅着の新幹線にて広島駅南大時計の下に待ち合わせ、積もる想いの語らいの内に、有っては成らない人類人間の悲劇、原爆慰霊碑に手を合わせ参拝していました。
熊田画伯は川の辺りに身を寄せられて、原爆投下直後の惨憺たる市内に、被爆者救済の日々を目に涙を滲ませ語も重き口元を震わせ話されたのです。
目の下を流れて行く川面に、今も助けを求めている被爆者の姿を見る様で、二人は口数も少なくバスに乗り、熊田様宅に急ぐのでございました。
私は、案内をされるがままに、熊田様宅に一歩足を踏み入れた途端に、「ァーァッ」と、声を上げた私は立ち竦み、
「熊田さん・・・此の絵は私が見た絵ではありませんか・・・。」「それなんです。私が杵築(うすき)の磨崖仏を絵描く事なぞ、加古さんに知らせてもいないのに、然も描きあげた絵を真夜中に起き出し直していた時に、加古さんからの電話です」
遠くに愛知県大府市から、私が広島の自宅で絵描いている絵の内容までも見透かしている摩訶不思議に、絵を描く事を引き受けてしまったのですが、
「幾ら絵が描けると言っても、見ていない光景を絵描くことが出来るのでありましょうか・・・」と、しみじみと話される熊田画伯でございました。
今も私の脳裏の奥に確りと絵描かれている光景を、私は三晩も泊めて頂き説明申し上げたのでございましたが、然しながら熊田氏は、
「これ程複雑多彩な光景では、とても私如き者には、絵描き切る事は出来ませんので、残念ですがお断りさせて下さいませ」と、言われて仕舞ったのです。
一瞬私の総身の血の流れが止まったかに思えた刹那、伊邪那身命のお言葉が走り、「熊田に描く気に成るだけ成って貰いなさい。後は神が描かせます」
私は此の伊邪那身命のお言葉を其の儘に、熊田画伯に伝えていました。熊田画伯は、
「神さまが描かせて下さるならば、慎んで描かせて頂きます」と言われ、終に描き上げられたのが「九条不戦神神との誓」の神画。世界平和の道標でございます。
テレビを通して見せて下さった映像と、夢の世界の中に聞く事が出来た説明に、真夜中に熊田画伯が広島で絵描かれる磨崖仏をお見せになり、熊田画伯を通して顕現に成られた此の神画が、日本中の神宮・神社・寺・個人宅へと数千枚以上奉納されたのでございます。更に、多くの方々の手によって世界中に奉納されました。
此の「九条不戦神神との誓」の神仏画が、世界平和の道標として、日本国の各地域に世界の国々に、広く伝えられて行く歳月の中に、度重ねてお伝え下さった神託を、私如き拙き者が皆さまにお伝えさせていただくのも、人間の我思想ではなく、食物の連鎖を以って創造された、大自然の営みに根差す風土に繋ぐ、永遠の弥栄の中に生き行く人間の福祉志合せの為に、お許し下さいませ。

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平成元年三月二十四日の真夜中に、熊田画伯が広島の自宅で、杵築(うすき)の磨崖仏(まがいぶつ)を描いているお姿を、夢の中に見ていた私(加古藤市)は、
「何です熊田さん、一年前に岐阜県羽島市にある円空上人誕生の地、羽島市上中町中の観音堂に出会った時に、貴方は、絵を描く事は止めにして、暫く彫刻に専念すると言われていましたね。それが絵を描いているのですね・・・其れなれば私も描いて頂かねばならぬ絵があるのです」と、口走った瞬間に夢から覚めていました。
そして熊田様と初めて出会った、円空上人誕生の地、中の観音堂での不思議な出来事を想い出していました。
そして其の時交換し合った、住所氏名と電話番号の事を思い出し、真夜中という事を忘れてしまい、電話していました。
高鳴る胸の私の耳に、「もしもし」の熊田様の懐かしい声に、「岐阜県羽島市の観音堂でお会いした加古でございます」と御挨拶をすれば、
「まあ・・・懐かしいですね」と、一生懸命に挨拶をして下さるのを制する様に、
「熊田さん・・・今絵を描いてお見えですね」と、お尋ねすれば、
「ハハイハ」とお答えになる熊田画伯に、
「仏様でございますね・・・それは杵築の磨崖仏ですね」と言えば、
「イヤァ・・・」と、奇妙な声を出された電話の熊田画伯の声に、妙な気分の私の口は、NHKのテレビを通して知らされ魅せられた、私の脳裏の奥に焼き付けられている天神界での昭和天皇の大喪の礼の光景を、熊田画伯にお話し申し上げ、
「絵の描けない私に代わり、描いては下さいませんか」と、お願いする私に熊田画伯は
「喜んで描かせて頂きます」と慎まし声で、一口に引き受けて下さいました。

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愛知県大府市にお住まいの加古藤市氏が、還暦をお迎えになったある日の事、白衣の女神さまが(初代・伊邪那身命)が突如お出ましになり、昭和天皇の大喪の礼の日に見せたいものがあるので、心して待つようにとの御詞がありました。

そして、大喪の礼の日・・・

『日頃神仏の存在について、何の特別の関心があった訳でもない私に、平成元年二月二十四日、昭和天皇の大喪の礼を、NHKのテレビ放送を通して一心にお見送をさせて頂いていました私の目に、テレビの画像が一瞬真っ白になり、続いて映し始めた映像が、何とも荘厳華麗にして、然も厳粛な神秘を称え満ち溢れる映像に、得も言われぬ美しさに織りなされ、重々しく映し出され移り変わり行く光景お姿は眩く、只々見惚れるばかりでございました。
ところが何んの音声も説明もなく、只々見惚れているばかりで意味不明で何もわからず、従って私はNHKに電話していました。
私は、テレビに映された光景を、一生懸命に話したのですが通じず、
「どう言うことですか・・・。今一度詳しく話してください」との言葉に丁寧に説明したのですが、通じ合わす事は出来ませんでした。
「そう言う放送はしていないので、それは貴方の幻覚が幻でも見られたのでは有りませんか・・・」と言われ、電話を切るに至っていました。
確りと此の目にしたテレビの映像だけが瞼に焼き付けられていて、何度も想い出し直してみるのでしたが、やはり意味不明で、神神しさの中に何度も繰り返し想い浮かべているうちに寝入っていました。
その私が再び夢の中に、あの荘厳華麗な尊姿の光景を見入っている私の耳に、何んと厳かな優しく綺麗な声の説明を聞く事が出来、深く深く理解する事が出来たのでしたが、最後のお言葉に、
「汝この光景を絵と為し広く世界に普遍せよ」との仰せに私は驚き思わず大声を上げ、
「駄目です、私は絵が描けませんのでお赦し下さい」と叫んだ自分の声に吃驚し、目が覚めていました。
それ以降、絵の描けない私に代わり描いて下さるお方を尋ね歩きだしていました。そして神が夢の中に知らせて下さったお方が、広島県観音新町にお住まいの、熊田良雄画伯でございました。』

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縁とは不思議なものです。過去世から御縁深き方にこの人生で再開し、また共に事に取り組む。加古藤市氏との御縁もそうです。この人生では、初めての出会いから約10年の時が過ぎようとしています。

加古氏は、昭和4年生まれ、藤原の一門のお宅で、その再建のために、お母さまが『藤』に『市』をつけて藤一と命名された方で、日本長尊(やまとたけるのみこと)が日本霊魂(やまとだましい)を復権された、熱田神宮の元の元地に暮らしていらっしゃいます。近い過去世では、藤原冬嗣の御子である良房の魂をお持ちで、空海と冬嗣の大きな関わりの中で育てられ、嵯峨天皇や淳和天皇と共に平安400年の基を築きました。

神託を受けホームページを開かせていただくことになりましたが、このホームぺーでは、私(トランブレーみゆき)が日本中で神事をさせていただいた中で、宮司様や住職様や日本中のたくさんの方々や、神々から学ばせていただいたことや、神々の御意思(みこころ)、また加古氏が神々から伝えられたメッセージや神仕組みなどをお伝えしていきたいと思います。

このホームページを通しての皆さまとの御縁にも心から感謝申し上げます。

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