月次アーカイブ: 8月 2017

「嬉しい・辛い・哀しい・楽しい・素晴らしい・寂しい・・・」等、形容詞で現わされる語を心に受ける時、私たちは成長する。無感動な時を過ごしたとて心の成長には役立たない。我々の成長はジ~っとしているだけでは為されない。外からの刺激を受ける事により、道なき道を歩み、悩みながら、やがて所々の広い見晴らしの良い空き地へ出てはホッとする。心にとっては感動は最高の栄養になる。つまり形容詞が魂を進化させて呉れる。我々が形容詞の世界を歩むことにより、沢山んの気付きを得る。辛い事、苦しい事からも「感動」は得られる。「苦」が「楽」に反転し得た時、それは大きな感動となり、自信となり、生きがいへと繋がる。感動する事を避けていては成長し得ない。感動を無雑作に選択し過ぎては、心のバランスが崩れる。「○○い」と云う言葉は、我々に魂の栄養を運んで呉れる。だから「い」の付く言葉を大切に!

あらゆる存在は、過去の出来事を何らかの方法で記録し、記憶している。それを取り出し、用いることが出来るかどうかに関わらず、記憶は内在し、蓄積していく。

突き詰めれば、「空間」そのものが「場」が、記録や記憶を有している事も有り得るわけです。つまり「宇宙」はあらゆる記憶を記録している、と言えるのです。そして、時に応じて、それぞれから預かり回収した記憶を、また個々に適宜プレゼントしてくれるのです。この「記憶」の伝達手段になるものが「い(=命の根源の働き)」です。「い」はある時には、「氣(き)」と呼ばれ、またある時には「時(じ)」「地(ぢ)」「自(じ)」「字(じ)」「事(じ)」などとも融合し、「血(ち)」となり「意(い)」とな、「火(ひ)」となり「智(ち)」となります。「生命(いのち)」や「泉(いずみ)」や「飯(いい)」にも融け込みます。そしてキッチリと秩序だって並べば「理(り)」と呼ばれ、生じれば「生(せい)」、消えゆけば「死(し)」と呼ばれる中にも「い」は働いているのです。「い」は「記(き)」を司り、「紀(き)」となり「糸(し)」となって繋がり、連なります。「宇宙は、去来する全ての出来事や意識の動きを記憶し、万有に語りかけているのかもしれない・・・」

と、昔友人が語っていましたので、ちょっとプチ日記に記し皆さまにもシェア(^^♪

RIMG6261.jpg

お盆だからお盆のお話しを(^^♪

お彼岸という行事は、日本独特のもので春分や秋分に御先祖様のお墓詣りをする習慣は仏教国のインドにも中国にも東南アジアにもありません。しかし、お盆は違います。お盆は、お経に由来する行事です。詳しくは「盂蘭盆経」に記されているのですが、簡単にいうと、お釈迦さまの弟子のお一人に目連という方がいらっしゃいまして、亡くなった母を透視したのです。すると、極楽に居ると思っていた彼の母は地獄に堕ちて、飲まず食わずの状態で苦しんでいた。彼はなんとか母を助けたく、お釈迦さまに伺いました。お釈迦さまは、「お前の母親は、生前、心が狭く困っている人々をみても知らぬふり、助けようともしなかった。罪の深さ故、お前一人が祈ったところで救うことは困難だろう。しかし・・・夏安居(げあんご)の終わる7月15日、断食が終わった僧侶たちに、お前が出来る精一杯の布施を行いなさい。」とお答えになりました。夏安居(げあんご)というのは、夏に行われるお坊さんの修行のことです。インドでは4月~7月の3ヵ月は雨期の為外出ができないので、その間寺院の中で断食などの修行をするのが夏安居(げあんご)です。その夏安居(げあんご)が終了したお坊さんたちにたくさんの食べ物を差し上げるという布施をしなさいということをお釈迦さまは告げたのです。ここからです。お盆という行事が生まれたのは。旧暦の7月15日、新暦の8月15日がお盆なのは、この日に夏安居(げあんご)が終了するからなのです。御先祖様だけではなく、戦争で亡くなった方々、災害や事故で亡くなった方々、この地球を支えて来て下さった過去の全ての方々に祈りを捧げたいですね。

お盆の話を書いていたら「摩訶般若波羅蜜多心経」が心に広がってきたので、ついでにお経のお話も。

では、「ニンニク」をテーマに(^^♪

「え? ニンニク?お経とニンニクとなんの関係があるの?」

ニンニク、美味しいですよね~~(^^♪

韓国アーティスト大好きの娘が次から次へと韓国料理を教えてくれるのですが、ニンニクを使った料理が結構多くて、よく ニンニクを使います。

チーズタッカルビも美味しいですよね♪(肉無し野菜ばかりで作りますが)

美味しいのですが、食べるニンニクはちょっと横に置いておいて・・・「忍辱」(にんにく)」について(^^♪

「忍辱」の話をする前にまずは、「般若心経」からいきます。
「摩訶般若波羅蜜多心経」の「摩訶」とは、サンスクリット語の「マハー」で、「偉大なる」という意味。「般若」は、パーリ語の「パンニャー」の音訳で「智慧」の意味。「波羅蜜多」は「向こう岸に渡る」ということ。
つまり、「向こう岸に渡る偉大な智慧」ということで、皆さんもよく御存知ですよね。

その大河を渡るためのチケット(^^♪みたいなものが (やった!(^^)/チケットがあるのね!?)、「六波羅蜜」で、「布施(ふせ)」「持戒(じかい)」「忍辱(にんにく)」「精進(しょうじん)」「禅定(ぜんじょう)」「智慧(ちえ)」のこと。彼岸に渡りたければ、この六つを行じなさいという教えです。

仏教の本などには、ほぼ全て「忍辱(にんにく)」とは、「耐え忍ぶこと。我慢しなさい。」ということだと記されています。

しかし

この「忍」、本当は「認」である。
仏教では「我慢」はハッキリ悪い事だとされているのです。

「無生法忍((むしょうぼうにん)」という言葉があります。空であり、実相であるという真理を認めることであり、一切全てが不生不滅であると認め、真理を悟った心の安らかな状態。

「法忍」は「法」を「認める」ことである。つまり、「つじつまが合う」事であり、「認める」事ができるが、「言い表せない」、「言葉にならない」。だから「認」ではなく「言(げん)」の無い「忍」の字があてられているだけなのです。

「忍辱(にんにく)」の「忍」は決して「忍ぶ」事ではなく「認める」ことなのです。
「過去の過ち・宿業」を「素直に、認めて、黙して、語らず、静かに、受け止める」事なのです。「禍(うず)」にしても「過去の過(あやま)ち・宿業を先祖・神仏が知らせて呉れる示し」だと言う事なのです。「示(しめす)」が付いている文字は「天・神・仏・先祖」に必ず関係しています。「示」は「天・神・仏・先祖」からの「お知らせ」なのです。「禍(わざわい)」も、そうなのです。私たちの「受け止め方、読み取り方」が大切なのです。気づいている方も大勢いますし、まだ気づいてない方はいずれ解る事でしょうが「この世の偶然の出来事」は「すべて天・神・仏・先祖、そして宇宙からのお知らせ、良かれのメッセージ」なのだ、と云う事が。何一つとして、「愚痴・怒り・貪(むさぼ)り」の心で受け止める様な物事は無いのだ、と云う事なのです。

と私の亡き友人が教えてくれました。彼は、仏教を究めに究めた方で、彼のおじいちゃまは昭和天皇にお仕えしてました。彼もよく皇室関係の方々や、日本中の宮司様 お坊様たちの相談役となっていました。お盆で、彼のことを懐かしく思いだしましたので、「ニンニク」についてもちょっとプチ日記に記してみました。

今日は、お墓詣りと家族でお食事会~4(^^♪ルンルン(^^♪
にんにく~(^^♪ニンニク~(^^♪お盆~(^^♪忍辱~(^^♪摩訶般若波羅蜜多心経~(^^♪

092_20170813094358945.jpg

先日、霊・魂・霊魂のことについて書いたので、今日は「霊媒」について書いてみたいと思います。

霊媒体質ということをよく言いますが、小さい頃から感受性が鋭くて、知らず識らず周りの波動と同調してしてしまう為に、周りの人の想いが言葉無しにわかってしまったり、周りの存在の痛みや感情ををそのまま受けてしまったり、他の人には見えない存在が見えたりする為、精神的に混乱をきたしたり肉体的に辛い想いをしたりする方が多いようです。自己コントロールできない状態の霊媒体質の方にとっては、人込みに出歩くことが非常に困難となります。彷徨う御魂さんたちも近づいてきたりしますし、地の波動をもろに受けたり、人の念なども吸収してしまったり、人が触った物を触ればそのままその方の波動が自分の中になだれ込んできたりします。このブログを読んでいる方々の中にもそういう方は大勢いることでしょう。

うちの家族について言えば、私は霊能者ではありませんが、小さい頃から彷徨う御魂たちの存在が周りに来てたので、死が終わりでないことは私の中の事実でした。今考えれば、周りの波動を受けやすく知らぬ間に吸収したりしていたようなのですが、自動的に肉体で浄化したり跳ね返したりしていたようで、特に寝込むこともなく、のほほ~んと過ごしてきてしまいました。ところが、私の娘たち3人とも、この霊媒体質のため、自己コントロールできず苦しみ抜きそれぞれに落ち着くまでに(自己コントロールができるまで)約10年かかりました。

「霊媒」は大きく分けて3通り。

A 憑依
B 神懸かり
C 帰神

「憑依」は、別に霊媒体質でなくても普通に憑依されたりするものであり、特別なことでもなく、されてても気づかない人が多いです。
ただ、強度の霊媒体質の方になると、憑依現象が凄まじく起こり、精神が弱ければ憑依した存在に振り回されることになり、あらゆることに支障をきたし、まともに社会生活が送れなくなります。精神が強く心身のバランスがしっかりととれていて、しかもバックの霊団の守りもしっかりしている状態ならば大丈夫です。
肉体には浄化作用の機能が備わっている為、周りの影響を受けた時、下痢したり、ゲップが出たり、あくびが出たり、熱を出したり、またとても眠くなったりします。数分、長くても数時間または1日ぐらいで自分の肉体で浄化できればいいのですが、浄化力の弱く自己コントロールが出来ない方は数日~数週間かかったり年中寝込んでしまう人もいるでしょう。

私の元には、彷徨う御魂に肉体に入られて普通の生活ができなくなったり、影響を受けて心身共にグラグラしてしまい、助けを求めてたくさんの相談が来ます。「どうしたらいいんですか?」という質問。

まずは、

○正しい食に切り替える。御数珠やお守りやお塩をなども守りとはなりますが、肉体は毎日食べるもので出来上がっているので、正食をするとことにより自分の肉体波動も上がりプロテクションとなります。身を守るために御数珠やお守りやお札に頼る段階もありますが、それは自分がまだまだの段階だと心得ておいて下さい。

○自己管理できるのが理想的ではありますが、霊媒体質の方は知らず識らずのうちに肉体を蝕まれている場合が多いので、霊眼を持ち心身の調整が出来る、高いレベルのプロに定期的にみていただくことをおススメします。こういった先生方も霊媒体質の方が多いのですが、霊的な影響を受けているような段階の方はプロとは言えないので、一切の影響を受けない高レベルの先生に見てもらうのがいいですね。

○適度な運動をして精神と肉体を鍛える。

○自分が霊媒体質であることの意味を素直に認める、。自他共に未浄化な感情を開放し、人間の様々な感情を自分自身のこととして受け止めるという学びを超えることができるようにする。この地球で起きてきた全ての悲劇も歴史も自分事としてとらえ、被害者加害者どちらの気持ちも自分事として完全にとらえる事ができるようになるまで、修行は続きます。

○負のエネルギーに同調する自分の負の部分を徹底的に消してゆく。(我欲を消しネガティブな波動を出さない状態を作る)

○自分の負が強くても彷徨う御魂さんたちはそのエネルギーに同調してよってきますが、自分の光が強くなれば強くなるほど、彷徨う御魂たちも助けを求めてよってきますので、更に心身を磨き上げ浄化力をアップさせる必要があります。

次に「神懸かり」について
自己の魂とか自分の守護神ではなくて、外部からの神仏などの依り代となる形が「神懸かり」と言われるもので、霊媒であることが求められます。霊媒の資質としては、知識を持ってない方が理想的です。あまりに博学だと、その知識故にどんな霊がかかっているかがわかりにくくなってしまいます。霊は、霊媒となる方の知識を利用することができますので、かえって邪魔になります。余分な知識などなく無学で素直で純粋な方のが天としては使いやすいでしょう。ただ、無学と言っても社会的な常識に欠けているという意味ではありません。

この「神懸かり」には「完全霊媒」と「半霊媒」という2種類あります。
「完全霊媒」というのは、霊媒になる人が完全に御神霊に肉体を貸す状態です。つまり、事が終了した時、御神霊が事をやっている間の一切の記憶が残っていません。これに対して、「半霊媒」というのは御神霊に肉体を貸しはしますが、自分の魂も同席しているので、その一部始終を覚えています。私が数十年前に出会ったアメリカ人の霊媒者は「完全霊媒」でした。目の前で、御神霊が入りメッセージをいただいたのですが、神界の仕組みを私に語り出し、その当時私に必要な貴重なメッセージをいただきました。顔つきも完全に変化してました。その後も「完全霊媒」「半霊媒」様々な方々に出会ってきましたが、使い物にならない危険な状態の方、闇の存在にいいように使われて気づいてない方、修行したらいい霊媒になれそうな方、いろいろな方がいました。

そして、本格的な霊媒者としては「完全霊媒」が求めれます。しかし、それは霊媒者の側にサニワがしっかりでき全てに対処できる者が居たらの話です。霊媒者の肉体の中に体を完全に預けるのですから、何が入ってきてもサニワできる力のある者がいないとマズいし、どんな者が入りこんできても適格な判断をし対処できなければダメです。あと、自分の記憶がないわけですから、その後の対処ができる人が側にいないと人との間で混乱を起こすことがあります。霊媒はピンキリです。どんな霊媒かを見極める時は、その霊媒となる方の御魂の霊格を見極めることが大切。霊格が高い場合は、高次元の御神霊が降りますが、霊格が低い場合に高次元の御神霊などを降ろしてしまえば精神異状を起こしたりします。低い霊格にも関わらず、霊媒をさせてしまったら動物霊や未浄化霊などが入り込み、対処が大変なことになります。この三次元では皆平等ではありますが、霊界は完全なる縦世界であり、霊格で分けられています。見える・聞こえる・過去現在未来を見通せる・病気治しができるというようなちょっと霊感があったぐらいで霊媒ができるというものではないのです。

最後に「帰神」について
これは自分の魂の本体神に還ることです。霊媒になり神懸かりになる必要は無しということです。自分の魂を成長させ、自分の神性・真我を発動させるだけでいいのです。つまり「悟り」の状態です。

大本教祖の出口王仁三郎氏は全八十一巻におよぶ大著 霊界物語の中の第48巻・第一章で、「帰神」について以下のように述べています。『人間の精霊が直接、大元神すなわち主の神に向かって神格の内流を受け、大神と和合する状態を帰神といふのである。帰神とは、わが精霊の本源なる大神のご神格に帰一和合するを謂うのである。ゆえに帰神は、大神の直接内流を受くるによって、・・・もっとも必要なる霊界真相の伝達者である・・・』

霊媒になり神懸かりになり、外部からの霊からメッセージをいただき指導・指示をされている状態ではまだまだということです。憑依や神懸かりを目指すのではなく、神懸かり現象で神を説き人々を光に導くのを超えた状態の、「帰神」を目指したいものです。

099_20170809113108996.jpg

数日前は、岡崎市 龍城神社境内地で開催される夏祭りを仕切るという依頼を宮司さまからいただいた為、音響・舞台・照明・机・ベンチ・椅子・太鼓などを一日かけてセッティングするお仕事をさせていただきました。やぐら下にもぐり15台ほどのマイクの配線を引いたり、いくつもの照明を取り付けたり、毎回やっていてもいろいろな出会いもあり新しいことの発見だらけで面白いしいい勉強になります。

御存知のように岡崎城・龍城神社は徳川と縁が深い地であり、何故か?私も若い頃から御縁をいただいていました。小さい頃は徳川のご先祖様である松平氏の墓に囲まれ育ち、その後も龍城神社の宮司様に御縁いただき、その息子さんも私の教え子であり、そして、兄も何故か?別ルートで宮司様と御縁が結ばれ、宮司様から直接音響・夏祭りを仕切るお仕事をいただくようになりました。神々の見守りの中で祈りながらお仕事をさせていただけるのは本当にありがたいことです。

岡崎と言ったら、八丁味噌。 この八丁味噌だるを使い葵の御紋が入った大きな太鼓が今回デビューしました。8人ぐらいでやっと持ちあげることができるぐらいの重さで、非常に立派な太鼓です。私も運ぶお手伝いしました~(*^^)v

この葵の御紋である「葵祭(あおいまつり)」についてなのですが、京都にある上賀茂・下鴨神社は、今から2700年ぐらい前の饒速日(にぎはやひ)天皇の御代、九州より神倭伊波礼古尊(かむやまといわれひこのみこと)が東征して、大丹生家(おにゅうけ)=天皇家・丹生家を制圧してし神武天皇として即位しました。しかし、全く丹生家の方々を無視することは出来ない為、少しでも協力してもらいながら神武政権に移行していこうと下手に出て、神武天皇より三代目の天皇の頃に、石槫(いしぐれ)に在る賀毛(かも)神社に真似て建設。このようにして、神武派と天照派(丹生家)の人々が一同に会して行った祭りが、「葵祭」だと言われています。

祭りは「神事(しんじ)」
「神事」は「心事(しんじ)」であり「真事(しんじ)」なり
「心事(しんじ)」で留まらず「信じ」ることにより
「真事(しんじ)」を為し
困った時の神頼みにならぬよう
日々の「行事(ぎょうじ)」として「行(ぎょう)じ」よ
これ神惟(かんながら)
「妙法」なり
「玅」なる「法」
即ち「最高の真理」なり

image1 (28)

今日8月8日は白山登山の予定でしたが、朝方白山ピンポイントで台風がいたので中止とし、今日は家でゆっくりしています。今日のプチ日記はちょっと真面目モード(^^♪

御縁ある方々とお話をさせていただいている時、魂・霊・霊魂という言葉が出たりそのような内容に触れることがよくあるので、今日はそれらについて書いてみたいと思います。

これらの三つのものは元々は一つであり皆同じもの。

この世に降り立ち人の肉体の中に宿れば、それを魂と言い、肉体を動かす力である命をいただきます。
霊というのは、高次元、この三次元を超えた意思ある波動・エネルギー。それには高い波動で人々を導くものもありますが、負の波動を持ち人に憑依する存在もあります。人間界に近く、人の世界を見守り導く存在。たくさんの霊能者がこの次元から導きを得ているようです。神はもっと高次元であり、高次元であればあるほど直接は霊媒になりエネルギーを肉体で受け止めることは不可能です。あまりに高ければ肉体である脳など破壊され狂ってしまうでしょう。それができる霊媒は、徹底的に修行されたわずかな方のみです。世に出ている見える聞こえるという霊能者といわれるほとんどの方々は、神のお取次ぎである霊を通してメッセージを得ています。キリスト様からメッセージです・・・とか、天之御中主様からメッセージです・・・とか、お釈迦さまからメッセージが・・・とか仰る方がたくさんいますが、霊が取り次いでメッセージをくださっているか、または完全に違ったエネルギーに惑わされ騙され遊ばれているか勘違いの方々ばかりで、申し訳ないですが本格的な霊能者は本当に数少ないと言わざるを得ません。御本人は気づいていないのがほとんどなので、たいていの場合は何も告げずに見守るだけでそっとしておきますが、その方が本気で魂成長を願い厳しいいことも受け止めるという姿勢であれば、はっきりと告げる場合もあります。その方がどこの次元までを目指そうとしているかですよね。

霊魂とは、肉体が無くなり、この世を彷徨う間の名前で、肉体が無い意思のみが残す波動です。霊媒体質の方はあちこちでそのような彷徨う御魂たちに憑依され、苦しい想いをする方もいます。自分の肉体の浄化力が強い方や、バックの霊団や神々の守りが強い方々は、さほど影響を受けることなく対処できますが、バックの霊団のお力が弱い方々は、御魂を天に上げる力も無いので、数体か数十体ぐらいに憑依されただけでヘロヘロになり体の調子がおかしくなるか倒れてしまうでしょう。本人の御魂の光も強くバックの霊団もしっかりしていて、かつ高次の神々としっかり繋がり御力もいただいている方は、数千体かかられても倒れずに対処できます。小さな負のエネルギーに対してもいちいち顔をしかめることも苦しむこともキャーキャー言うことも一切ありません。

霊が次元を落として人間に教えをしますが、それらは表面的な五感ではなく奥にある潜在意識を通じて伝えてきます。この御本人の中に備わっている「魂の柱」こそが神との接点となるものなのに、人は外部から来るものにばかり操られ、自分の守護神からも離れ、邪なものに遊ばれ、迷いの道をまっしぐら。 神との接点であるこの柱が一切曇らず汚れぬようにし(我欲を徹底敵に無くす)中庸の状態を常に保ち、調和を目指し生きることをすれば、外部の存在に惑わされないことに繫がります。
高き視点で(人間の視点からのみでなく常に神々の視点からも)物事を見渡し、見極めることが大切ですよね。

自分を信じることはとても大事ですが、信じている自分は大丈夫か!?と、時には自分を疑い戒めることも必要ですよね。そして、周りの方々から忠告やアドバイスを受けたのならば、たとえそれが自分の意見と異なろうとも、相手を非難・否定することなく、それを素直に受け止め、しっかりと見極め、学ばせていただく姿勢でいたいですよね。私はまだまだ未熟で欠けている部分ばかりですので、周りの方々から学ばせていただき魂を成長させたいとたいと思っていますので、これからもどうぞよろしくお願い致します。

057_20170807133348b15.jpg
奥穂高