真名井の観音

今年の節分は、元伊勢・籠神社の御祭神である天火明命(あめのほあかりのみこと)様の三世孫である天忍人命様の御子の御魂をお持ちの方と関係者6名で祈りを捧げ一緒に時間を過ごしました。真名井に御縁深き88歳のおばあちゃま、徹底的に鍛え上げたバリバリの神能者なのですが、深い御縁を感じています。他の皆様がお帰りになる時「あなたはちょっと残って下さい」と言われ、その後話すこと数時間。神からの御言葉もいただきました。これからも頑張りたいと思います。

『元伊勢 籠神社の祝部海部直系図によると 三代 倭宿禰命(やまとすくねのみこと)様の時、神武天皇と記されているが・・・当時の心中をお聞かせ願いたい』と、このおばあちゃまがお訊ねになった時のこと・・・

倭宿禰命様は以下のようにお答えになったそうです。

『我が国は神国であった。多数の神々の國納めによって守り護られ、神国となって国の基礎をかためた。天の神の勅により、天火明命は国しずめと国納め・国平を預かっていた。天火明命とニニギノ命は兄弟であったが、同じく勢力を広げていた。半島より勢力を伸ばしてきた神武勢力に、戦いを止め無条件にて国政をゆずったのだ。天火明命を支えてきた神々は、全てを放棄し「貝」になることを重んじて、陰ながら国家の繁栄、民の幸福を祈り続ける事を誓った。当時、直面している神々の心境は口に出す事はできず、すべてを許し、大きな弾圧に耐えていた。生活も一変し今まで何を・誰を、恨むことなく、天地自然の恩恵に感謝に明け暮れていたものが、風説に怯えなくてはならない。人を信じることのできないまでに変化していったのです。また勝ったからとて、安らかな人生を過ごせるものではない。必ず政権を奪われる事の恐怖が、人を国を苦しめ、また自分が苦しみに陥るのです。それが悪心と化し、血を見るようにもなる。この時元伊勢の二代・三代は国の安泰と当座の心の休まりを、一本の木に託し、一生懸命に無心に入刀し観音を彫刻することに成った。これの観世音菩薩に全心身を投じて祈願・祈念したのです。観音は如何なる運命にさらされても、観音の宿命・使命を全うしてくれていた。今もなお・・・』

真名井の観音様は、当初真名井の海岸の岩の中に安置され、土地の人々を始め、大勢の祈願を成就なされ、参拝者も絶えなかったそうです。土地柄とは言え度々の海の時化に波にさらわれ、漂流し岸辺に打ち上げられ、奇特な方に拾われ、岩屋に戻るも亦時化にあい、日本海の荒波に漂流すること度々、1200年余り。海中にいながらも与えられた使命をおつくしになったそうです。舞鶴の岸辺で波に打ち上げられて居るところを、徳川家康公の計らいで佐々木城前のお堂に安置され、武士の守護神となり、いつき祀られていました。そうして城解とともに笹尾村少林寺に。佐々木城主並びに武士が寺の僧となり観音様を安置したが、笹尾寺には聖徳太子の一刀彫り聖観音様がお祀りされていたので、武士が観音様と檀家へ下ったのが出口家の初代とされています。この出口家の方がこのおばあちゃまで、真名井の観音様は今出口家に安置されてますので京都の元岩屋には現在観音像はありませんが、跡地には今もエネルギーがこもっており真名井の地を守り続けてくださっています。

籠神社出身の真名井御前様(空海の弟子であり淳和天皇の后であった方)は、もちろんこのおばあちゃまととても縁深きお方。真名井御前様は、この観音様のことをおばあちゃまにお願いしていますし、いろいろなメッセージもいただいています。真名井御前様、おばあちゃまに以下のようにおっしゃってたみたい。

『私の幼少の頃、貴女が観音様(聖徳太子一刀彫り)にお祖母さんに背負われ、手を引かれ参拝したように私も父母・祖母に連れられ、毎日毎日岩屋観音にお詣りしていたのです。観音様の前には、お灯り・お香・お供物の止む間が無かったと思う。今思い出しては幼少の頃の真名井は懐かしいです。観音様の信仰者が多く御神徳を頂いて帰り、またお詣りに来るのです。明日と言わず日に幾度となく祈願に来る人もあり、観音様あっての真名井になっていたのです。遥か昔のことが二千年もたっても今貴女の信仰の力でよみがえってまいります。こんなに嬉しいことはありません。私共の心の中に観音は生きています。姿無き身となった今も観音に護られ、導かれ自分に与えられし使命に精一杯精進致しています。貴方が私共に気づいて下さり、度々神呪寺に出かけお詣りしていただけ本当に嬉しいです。・・・・・・全ての起点は真名井です。神々様の多くの発祥の地は真名井の地です。』

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