熱田神宮造営誌 その2

先日熱田神宮の終戦後について記しましたが、終戦前のことについても少し記しておきます。

以下、「熱田神宮昭和造営誌」から抜粋

防災工事

この頃名古屋市は軍需産業の一大中心地であった。殊に熱田の宮の鎮まります南部地区は航空機を始め多くの軍需工場が櫛比していた。万一戦端が開かれた場合には空襲の危険は十分に予測された。しかも大陸の戦火は次第に拡大し、世界情勢も第二次世界大戦勃発を目前にしていよいよ緊迫の度を加えていた。
この様な情勢から昭和十三年六月、政府及び神宮当局では、絶対に必要となる日の来ない事を熱願しつつ、神儀奉護の為に、有効な措置を取らざるを得ないという結論に達した。
そして実施に移されたのが、「神庫」新設工事であった。
神庫はまずあらゆる空襲に耐え得るものでなければならない、と同時に神儀を奉斎する為に神殿形式であることを要する。この条件から、工事は内務省と、陸軍築城本部とが中心になって進められた。当時の広瀬内務次官と陸軍築城本部長が来宮、現地に於いて長谷宮司を交え慎重に検討の結果、国費十五万円によって施行することを決定。更に再度にわたって内務次官、神社局長以下が来宮して位置その他を検討するなど、まことに慎重な準備を経て工事に着手した。
同年十月地鎮祭を執行。築城本部が当時最新の築城技術をあつめて設計した、一トン爆弾の直撃にも堪えることが出来るという、地下御殿の建設が進められた。
面積神庫三八坪七五(一二七・八平方米)東廊西廊二一坪五〇(七〇・九平方米)計六〇坪二五(一九八・八平方米)総体は鉄筋コンクリート造で一部鉄骨、鋼鉄製扉が三重に設けられ、気密鉄扉で外気と遮断されるようになっていた。屈折した廊下を経て、気密鉄扉内は内陣、外陣に分かれ、総桧造の社殿形式が施工された。
勿論この工事は当時としては機密を要する工事であった。従って工事名称を、「水道工事」として外部に工事内容が漏れるのを防ぐなどの苦心を重ねながら一刻も早い完成を目指して工事は進められた。
完成は昭和十四年末。後述する様に五年余の後、恐れ多い事ではあったが、一時神儀を奉遷申し上げて、奉護に完きを得たのは、実にこの神庫のおかげであった。
神庫の工事と殆ど時期を同じくして、本宮を中心とする防火施設が、大きな規模をもって開始された。
この施設工事には十万円余の経費が投入され、国費の外に奉賛会、特志家などの浄財があてられている。
施設の概要は非常の際、市水道が断水した時を配慮したもので、境域の東西二ヶ所の神池(各水量約一三〇〇立方米)の水を、両神池に接して設けた二ヶ所のポンプによって汲み上げ、十分な圧力を加えて本宮周辺七ヶ所の消火栓から放水しようとするものであった。ポンプは八十馬力のガソリンエンジンが東西ポンプに室にそれぞれ備付けられた。ポンプ室は空襲地震等に耐える様に、鉄筋コンクリート鉄扉付とし、東は一〇坪五三(三四・七平方米)西は一二坪七一(四一・九平方米)の面積をもつ。ポンプ室から本宮周辺へは、径二五〇ミリの配水管を埋設、それぞれの消火栓を結んだ。
東西両神池の水の補給は境内に西部に二本の鑿井を新設し、この井水を掦水して正参道両側の側溝に導き、最後に神池へ流す仕組みにした。従って、神池へ常時水が流れ込みいつも十分な水量が確保されていたわけである。
鑿井の深さは一本が約一三三米、一本が約三三〇米であった。前者は愛知県下全小学校生徒から寄付金を、後者は福岡県貝島太市氏からの浄財を経費にあてたものであった。
その外に地下貯水槽が、昭和五年に二箇、昭和八年に一箇、昭和十四年に一箇(各貯水量一〇〇立方米)設けられ、手動ガソリンポンプ(十六馬力)と相まって防火態勢を強化した。
以上の諸施設も昭和十四年には工事を完了している。
この時期の防火施設が、何処に重点を指向していたかは、当時定められた次の「熱田神宮非常時職員の心得」の一節がはっきりと物語っている。
「……火災其他如何ナル非常事変ニ際会スルトモ、当神宮職員タルモノハ先ツ本宮境内ノ保全ト警衛トニ専念努力シ、就中御本宮正殿ノ保全ニツキテハ及フ限リノ手段ヲ竭シコレヲ死守スルノ覚悟アルヲ要ス・・・・・・」

熱田神宮造営誌 その1

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