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戦災の被害について、以下熱田神宮造営誌から抜粋し記します。

名古屋に本格的な空襲が加えられたのは、昭和十九年十二月。明けて昭和二十年。日に日に激化する空襲の様相は、当神宮の職員にも最悪の事態に対する決意を固めしめた。百二十名の職員は既に非常事態に入り、警報発令と同時にそれぞれ定められた配置につく日々が続いた。
果然、三月十二日夜、二百数十機のB29来襲、遂に無数の焼夷弾が神域に落下した。
劫火は夜明けまで荒れ狂った。この日焼失した施設約九十、建物の延坪約千五百坪(約四九五〇平方米)。境内諸施設の殆ど三分の二を一夜にして失った。
中でも、国宝に指定されていた鎮皇門を始め、東楽所など貞享三年改修築のもの等、多くの由緒深い建造物を焼失したこと、又前述の新築間もない勅使館、神楽殿、斎館、官庁など一連の建物を悉く失ったことなどは、この上もない痛恨事であった。
当神宮では、直ちに仮宮庁を焼け残りの錬成場(旧宮庁)に移して応急処置を講じ、とりあえず奉祀、参拝に支障を来さない最小限度の施設の復旧に全力を挙げた。
熱田神宮御被災のことを知った国民からは、一日も早い御復興をと、切実な祈りをこめた浄財が数多く寄せられた。約一月後には被害視察に来宮した大達内務大臣の五百円を始め、総額は実に十万円に達している。
だが、非情な戦火は再び、熱田の社を犯し来った。
大本営発表(昭和二十年五月十七日十二時四十分)
一、本十七日二時頃より約二時間に亘り南方基地の敵B29約一〇〇機名古屋地区に来襲市街地に対し主として焼夷弾攻撃を加えたり、右に依り熱田神宮御本殿御屋根の一部及付属建物の一部炎上せり
なお名古屋市内各所に発生せる火災は払暁迄に概ね鎮火せり
二、現在迄に判明せる戦果撃墜九機撃破二十二機なり
前回の空襲から辛うじて免れた諸施設は炎上潰滅した。
しかも恐れ多いことながら、戦火は遂に御本殿に及んだのである。勿論御本殿被災と知って職員は死力を竭した。燃えさかるお屋根の上で炎に包まれながら、無理矢理に引きずり下されるまで火と戦った職員もいたし、御本殿の中へホースを抱いてとび込み、煙に巻かれて失神寸前に救い出された職員もいた。火は神宮、消防、軍隊などの必死の努力によって、御屋根の半ばを焼いて消し止められた。しかし、戦火の及んだ本殿を存置することは恐れ多いと直ちに解体の工が進められた。
翌十八日の新聞紙上に次の様な長谷宮司謹話がのせられた。
「真に恐懼に堪えない次第でありますが、前日御神体始め御動座申し上げたのは真に御神慮で、まことに感激置く能わざるとこ ろであります」長谷宮司の談話中、「前日御動座申し上げ・・・・・・」とあるのは次の様な事情であった。
万一の事態に備えて地下御本殿が築造されていたことは、前節で述べたが、問題は、何時奉遷申し上げるべきか、という奉遷時期の問題であった。神爾の奉遷はは云うまでもなく、最高の重大事である。まして当神宮の場合、宮中の御意向を拝せねばならぬ。軽々にすべき事でなく又出来ることでない。といって時を失して万一の事態に至ることは絶対に許されない。恐らくは、神宮当局首脳の苦悩は筆舌に尽くせないものがあったにちがいない。三月の大空襲も御本殿に関する限り御異状がなかった。だが果して何時まで御異状なしと云い得ようか。遂に断が下った。奉遷の儀を執り行うと決定せられた期日、それが実に五月十六日であった。当時の情勢下に於ける、能う限りの厳儀を以って奉遷が行われた。朝から行われた奉遷の諸儀は夜に入って終わった。安全この上なき地下御本殿に奉遷後僅か数時間の後、名古屋地区にB29来襲の警報が発せられ御本殿の御屋根にも御被害を蒙ることになろうとは。御神慮の程ただただ恐れ多い極みであった。
五月十七日空襲の被害は、本宮関係を始め、国宝海上門其の他であった。

熱田神宮造営誌 その1・その2

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