日ノ本の歴史

太陽系宇宙産の創世 生命誕生の真実と輪廻転生

 

1.大正腑天神(だいしょうぶてんじん)による十三示元津(かい)の創世

宇宙産十三示元津を御創造になりました「大正腑天神の大霊神理氣」は、まず「①太陽」を御創造になり、暗黒だった宇宙産が太陽の放つ光によって次第に明るさを持ち始め、ついに光の際限津になる「②宇宙産迂迦(うちゅううが)」の障壁賀津(しょうへきがかい)」が出来たので御座いました。
そして太陽の周りには「③日輪の施津」が出来上がり「④水星津」「⑤金星津」「⑥地球津」「⑦火星津」「⑧木星津」「⑨土星津」「⑩天王星津」「⑪海王星津」「⑫冥王星津」と設(しつら)えになり、それぞれの次元に生命誕生のための責務を課せられたので御座いました。

 

 

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2.  月と地球の創世

中でも生命を誕生させる地球には、日輪太陽津以外の十一示元津をお使いになり、「邊土(べと)」と「海水」を阿弥生産(あみうみ)出させになり、それらを集めて大きな塊「地球」が創り出され、その中心には熱を温存する事が出来る「熱蔵帯」が設けられたので御座いました。そしてその「地球」には熱を絶え間なく温存する為に「⑬月」が配置され、定期的に海水を旨く移動させる潮の満ち干満をもたらし、邊土と海水との摩擦熱を地球の中心「熱蔵帯」に蓄えになり、冷え切ることのない生命津地球を創世になりました。

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3.  十一示元津の「生(しょう)」

そこで更に、水星から障壁賀までの十一示元津に「生(しょう)」を発生沸き立たせになり、太陽の光の際限津にあります宇宙産迂迦の障壁賀津(天の貴天原)に、全ての「生」を集わせになり、太陽から飛翔する「丹(に)」をお持ちになるので御座いました。

 

 

4.真空光帯の中の月と地球

太陽から放たれた光は、障壁賀津にて反射され裏光となって、太陽から直接に来る光と交叉させになり、生命が生氣ていくための地球と月のある示元津に、無色で透明な「真空光帯」をお創りになりました。

 

5. 三宝亢進(さんぽうこうしん)

こうして十三示元津が整い、初めて太陽に「丹(に)」と「芒種のエネルギー」を練り阿弥生産出させになり、これらが太陽の真光を受けて照り輝き返し合い、寿命を戴く「亢進状態」をお待ちになるので御座いました。

この太陽の「真光(まひかり)」と「丹(に)」と「芒種のエネルギー」とが、日輪津において亢進状態にお入りいなる神姿を「三宝荒神」(さんぽうこうじん)」とお呼び申し上げ、仏教では「三大虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)としてお祀りして参りました。またこの日輪太陽津でお活動氣(はたらき)になる神を「天照皇大御神」(熱田の神)と申し上げ、このお祭りを「生産祭(しょうぶまつり)」(正腑祭)と定め置かれました。

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6.三位一体の生命の憑軀子(つくし)<遺伝子>を考案

地球と月の真空光帯の世界に、芒種のエネルギーを集めて生産(うみ)の神理氣にお変えになり、それを消費してゆく事の出来る生氣物(いきもの)を誕生させてゆく、それが植物・動物・人間の三位一体の憑軀子(つくし)の御考案で御座いました。「生えて生やす、生まれて生む、食べて食べられる。」不滅の生命帯施津(せかい)を御創造(おつくり)になることによって、芒種のエネルギーを余すことなく使う事がお出来になりました。

太陽が発する芒種のエネルギーは、生命遺伝子が活動する原動力となって生命が育ち、植物・動物・人間が三位一体となって活動(はたら)く時にこそ完全作動するという不動の仕組みであり、全ての生氣物が無病息災で生氣ていけることが出来るように御創造になりました。

こうして生命は太陽が燃え続ける限り永遠不滅に存続し、死という形をとってまた生命の源の太陽のエネルギーとして燃え続けてゆく、この不滅の供給者としての太陽と、不滅の消費者としての三位一体の生命の誕生で御座いました。

そして全知全能全善の愛と正義と良心の「大正腑天神(だいしょうぶてんじん)」の神慮によって、善い事だけで重ね置かれる施し助け合いの生命大連鎖の神羅万象が恵の中にあり、この「知瑠恵(しるめぐみ)」をもって生命界を御創造お生産(うみ)出しになりました。

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7.日輪太陽津(かい)における「天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)」の活動氣(はたらき)

「天照皇大御神」は生命を誕生させるために、太陽に「丹(に)」と「芒種(ぼうしゅ)のエネルギー」を練り阿弥生み出させになり、太陽の周りの日輪津(にちりんかい)に留め置かれ、太陽の真光(まひかり)をもろに受け留めさせ、お互いに激しく照り輝き返し合わせて、激しく高まり来る熱氣をもって日輪太陽津を熱い田(でん)とされたまい、この施津(せかい)を「金剛蔵王界」と申します。

そして生命遺伝子の源となる根を創り出すために、たぎりくる太陽の「真光」を「丹」と「芒種のエネルギー」とで更に激しく反応させて、吸収吸着し合い、渾然一体となって「親光(しんこう)」となり、「丹」が何時でも何処でも吸収吸着する事が出来る「亢進状態」をお創りになりました。

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8.天王平(てんのうびら)における「丹生津(にうつ)の神」

の活動氣(はたらき)

激しく高まりくる亢進状態の中で、「丹(に)」が「親光(しんこう)」に導かれて、十一示元津(じげんかい)を回転し乗り越えて、宇宙産(うちゅう)十三示元津の最果てにあります宇宙産迂迦(うちゅううが)の障壁賀(しょうへきが)に運ばれるのでありました。そしてそこに集う「生(しょう)」と所為愛(神聖な慈しみ合う愛)によって結ばれ「丹生(にしょう)」となって天王平(宇宙の子ノ宮)に降り「丹生丹生魂遺伝子(にしょうにゅうこんいでんし)」が誕生して、植物・動物・人間の元姿(霊命)が顕現されたので御座います。この「所為愛」が生命界の全ての生氣物(いきもの)に授けられ、生命が尽きる事のないようお仕組みになりました。

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9.天の意和戸(いわど)における「大正腑天神(だいしょうぶてんじん)」との約束

広大無辺の生命帯が持っている愛の産霊(むすび)の嬉しさ・楽しさ・喜びを、一丹(たん)一丹(一つの塊にした命の一端一端)に背負わせになり、愛の産霊の担い手として、三位一体の生命が一帯となって生氣ゆくための命の有様を、丹生(にしょう)の遺伝子の霊魂(たましい)の中に伝授されたので御座いました。

特に人間の丹生丹生魂遺伝子は「正腑(しょうぶ)の腑(ふ)」と「心」を戴き、全ての物事・動植物に通じ合わせることが出来適う「知瑠恵(しるめぐみ)」を授けられました。こうした物事を正しく見定めてゆく霊魂でなければ、生命となった時、欲から発してくる知恵に惑わされて生命界を崩してしまう事を、神は危惧されたので御座いました。

このようにして、永遠不滅の生命遺伝子にするために、神の大御意志(おおみごころ)に従い生命の永遠の弥栄(いやさか)のために貢献し尽くした霊魂は善業とされ、この神仕組みを蔑ろにして生命を阻害する霊魂は悪業と定められ、この善悪を即座に見極めることの出来る「正腑の霊魂」を組み込まれ、絶対に争い戦いはせずお互いに賛助志合う「御難賛助(ごなんさんじょ)の御誓約(うけい)」が「大正腑天神」と「丹生丹生魂遺伝子」との間で交わされたので御座いました。

こうして愛の産霊(むすび)の喜び嬉しさを生氣る糧として、愛の体現者として、神の仕組まれた「知瑠恵」を生氣ゆくことが出来適う遺伝子が切り離されて「天の意和戸」をお出ましになりました。この時の状況を「個切理児(こきりこ)」という言葉で表し、個切理児・こきりこと唄いはやされて「天の意和戸」を居出立たれ、北極星を通り「月施津(せかい)」を目指して飛び立ち巡りて行くのでありました。このお姿を「勾玉(まがたま)」として崇めてきました。

そしてこの「天の意和戸」を最初に飛び立たれた植物・動物・人間の「丹生丹生魂遺伝子」(生命継承権憲邪)が、生命を戴くことが出来た喜び・歓喜に満ち溢れた神秘なお顔が、吉野の蔵王堂(ざおうどう)にお祀りされている「三大金剛蔵王権現(さんだいこんごうざおうごんげん)」のあの様相で御座います。

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◉障壁賀(しょうへきが)

太陽から「丹(に)」を乗せた「親光(しんこう)」が届く宇宙産(うちゅう)の際限津(さいげんかい)を、「障壁賀」と記すように「初代」伊邪那身命さまがおっしゃいました。日輪太陽津より放出された「丹」をお受け留めになり、「丹生丹生魂遺伝子(にしょうにゅうこんいでんし)」を生産(うみ)出される丹生津の施津(せかい)にあるお目出度い処で御座います。

生命の神仕組みをよくご存じの空海さまとの繋がりがあった嵯峨天皇の離宮(大覚寺)に、障壁賀が遺されています。また二条城にも在り、徳川将軍が京都にお出になった時、奥方と寝食を共にされた部屋に遺されています。

 

◉憑軀子(つくし)

神霊をもって軀(からだ)が創造(つく)られた丹生丹生魂遺伝子(にしょうにゅうこんいでんし)

 

◉憑軀子育(つくしだけ)

神が御創造(おつくり)になられた遺伝子が、三位一体となった無限大の生命界の仕組みを悟り、お互いに賛助し合い愛の産霊(むすび)の中で、喜びの中で生命を継承してゆく事。

 

◉個切<記>理児(こきりこ)

過去・現在・未来と、糸のようにつながっている遺伝子が愛の産霊(むすび)を「知瑠恵(しるめぐみ)」として戴き持ちて、生命界においてどのような苦難があろうとも、お互い助け合い、良心でもって三位一体の生命界の永遠の弥栄を守り抜くという神との約束の出来た「丹生丹生魂遺伝子」が「天の意和戸(いわど)」を前にした時、生命の丹波波動が「個切理児」こきりこと響き渡り唄いはやされて、遺伝子の一つひとつが切り離されてゆく姿。

 

◉星祭り

宇宙産迂迦(うちゅううが)の天王平(てんのうびら)において、植物・動物・人間になるに相応しい遺伝子をお集めになり、一つの塊にされたのが「植物の胞絲(ほし)」「動物の哺絲(ほし)」「人間の哺孖(ほし)」で御座いました。星とは遺伝子のことであり、生命を戴いている事への感謝のお祭りで御座います。

 

◉越中八尾の風の盆

八尾には「風の盆」と呼ばれる風情ある言葉と風習が遺され、その八尾を美しく彩るのが「越中オハラ節」で御座います。人の世は過去・現在・未来のつながりの中で魂が輪廻して成り立っており、かつての日本人は「盆」と呼ぶ行事を催して、あの世の方々をこの世に招き供養の踊りなどをお供えして、人祖より連綿とつながって来た生命(いのち)の有難さを感謝していたのでした。

この「盆踊り」や「こきりこ」の演奏は、唄と踊りと楽器の演奏の声音(こわね)に合わせて、「霊命遺伝子」が神とした約束を魂の奥から醸し出す、そのためのものでありました。念仏踊りや神楽、宮中の踏歌(とうか)など、人が唄ったり踊ったりする全てが「どのよう難儀があっても愛の産霊(むすび)に生き、お互い助け合って生命界を守り貫き通します。」という神との約束を、霊魂(たましい)の奥底から揺さぶり出すものであるそうで御座います。

 

◉出雲の阿国(おくに)

出雲大社の巫女の「阿国(おくに)」が京都に出て演じた念仏踊りが、「歌舞伎」の始まりになりました。これもやはり、生命を御創造下さいました神々を想い慕い願う霊魂の踊りでありました。この「阿国」は、出雲に封殺されました「饒速日(にぎはやひ)天皇」の内閣のお一人の御子孫の家系のお方でありました。

 

◉天の岩戸物語

古事記に書かれています「天の岩戸物語」は、宇宙産迂迦津(丹生津)で生命を継承する恵みを戴いた「丹生丹生魂遺伝子(にしょうにゅうこんいでんし)」が切り離されて、「天の意和戸」を飛び立つ時の事を色々と書き替えて作られました。「天の意和戸」は「天王平(てんのうびら)」にあり、植物・動物・人間の霊命が神と御誓約(うけひ)をする出入り口のことで御座います。

 

 

10. 月施津(つきせかい)における伊勢生成(いせいいなり)の神の活動氣(はたらき)

月津(げっかい)に降ろされた「丹生丹生魂遺伝子(にしょうにゅうこんいでんし)は伊勢(いせい)<異性>に分けられ、生命を誕生させる「丹波波動」と、それを尽きる事のない不滅の生命と生産(うみ)変えてゆくための「愛染生成波動(あいぜんいなりはどう)」<神の知瑠恵に依って伊勢が結ばれる事の喜び>を組み込ませ、生命を生産(うみ)出される五神理氣(しんりき)<日輪太陽の神・丹生津の神・地球の神・遺伝子を司る神・月の神>の意志を一津の個体に連鎖させ、脊髄をもってそれらをつないで生命を誕生させになりました。

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11.生命界地球へ降誕

①植物の生命継承権憲邪の御降臨

宇宙産迂迦(うちゅううが)で誕生した丹生丹生魂遺伝子(にしょうにゅうこんいでんし)は、植物・動物・人間の遺伝子に浮分けされ、一番最初に「天の意和戸」をお出ましになられたのが、静津(せいかい)を司りになる植物の元生産親(もとうみおや)の「生命継承権憲邪」「皇親(すめらかむつ)」神漏樹六根神(かむろぎろくねのかみ)で御座います。北極星を通り、無色で透明な真空光帯の中に在ります月施津(つきせかい)に到着された憲邪さまは、望月の月明りに照らされながら、伊勢生成(いせいいなり)の五神理氣(ごしんりき)により双津(ふたつ)に分けられて、「雄蕊と雌蕊」の伊勢生成の生魂となって「産土(うぶすな)の聖地」に送られたので御座いました。

この御降誕の地は、「大正腑天神(だいしょうぶてんじん)」が仲立ちに入る事出来る宮ノ津(みやのつ)「天ノ橋立」を彦根(ちゅうしん)とする丹庭(たにわ)をお選びになりました。霊命・生命の安らぎの免疫所として、神が記し置かれた「與謝界(よさかい)」「天記津州(あきつしま)」の神霊地で御座いました。ここは現在の京都府与謝郡峰山町鱒留に御座います「藤社(ふじこそ)神社」の宮内であります丹波の地で御座います。この地で、生命界地球で生きゆくための免疫が与えられ与謝界の沼・池・川・与謝の海や野山にと生成繁茂してゆき、北方から大陸へと広がっていったそうで御座います。

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②動物の生命継承権憲邪の御降臨

続いて、動津(どうかい)を司りになる動物の元生産親(もとうみおや)の「生命継承権憲邪」「皇親(すめらかむつ)」神漏身六根神(かむろみろっこん)も、同じく月施津(つきせかい)に到着されて「雄と雌」の伊勢(いせい)に分けられて、産土(うぶすな)の地球に御降臨になりました。その場所は、現在の京都府与謝郡峰山町久次の「比沼麻奈為(ひぬまない)神社」の宮内の丹波の地で御座います。そして、伊勢生成(いせいいなり)の神仕組みの中で繁殖してゆきました。

 

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③人間の生命継承権憲邪の御降臨

更に続いて、理津(りかい)を司る人間の元生産親(もとうみおや)であります「丹生丹生魂遺伝子(にしょうにゅうこんいでんし)」に生命継承権が貸與され、同じく月施界に到着すると、直ちに「男と女」の伊勢(いせい)に分けられたので御座いました。この双津(ふたつ)に分けられた「丹生丹生魂遺伝子」を、「生命遺伝子」として誕生させる手立てとして「伊勢生成の神仕組み」をお創りになりました。

この「丹生丹生魂遺伝子」が持っている82の染色体を42と40に分けられて、42の染色体の持ち主には金剛蔵王(太陽)の金玉(こんぎょく)が授けられて、技分(ぎわ)けの身業(みわざ)<精子を子宮に移す>をお与えになりました。一方の40の染色体の持ち主には子生産(こうみ)の染色体が与えられ、新月の糸月から望月の如くに身変しても元の身体に還る柔(やわら)の秘身が授けられて、月を経て生身の身分けの実業(みわざ)<子生産 こうみ>が与えられたので御座いました。

このようにして、「産土ノ地球(うぶすなのちきゅう)」に人間として最初に御降臨・御降誕になった42の染色体をお持ちの方が、人間の「生命継承権憲邪」さまで御座いました。720万年前の事で御座います。その場所は、現在の京都府宮津市大垣の地(丹波国)に在ります真名井神社の宮内の、「貴天原真名井原(たかあまはらまないはら)の丹庭(たにわ)」日の小宮の岩座で御座いました。

このお方こそ人類「初代」伊邪那身命さまで、與謝身(よさのみ)「大丹生天皇(おにゅうすめらぎ)・皇后(すめろぎ)」の御誕生で御座いました。このお二方は、月施界より紫雲たなびく中を御降臨になり「匏(ひさご)」瓢箪(ひょうたん)のような繭(まゆ)のような姿形をされた生氣物(いきもの)として成長され、何度か脱皮を繰り返されて人間として成長なさいました。現在もこの事を伝える石柱が、真名井神社の二の鳥居の門前に立てられています。

『匏訓(ひさごとよむ) 瓢也(むかごなり) 比佐古之社(ひさごのやしろ) 吉佐宮(よさのみや)<与謝宮>』

これは、以前は一の鳥居の傍らに在りました。「瓢箪(ひょうたん)から駒」とはこの事で御座いました。

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12.弥勒(三六)の神理氣(しんりき)

生命を誕生させる三と六の神仕組

☆息津(おきつ) 「日輪太陽神(にちりんたいようかいしん)

☆湍津(たぎつ) 「宇宙産迂迦神(うちゅううがしん)」

☆邊津(へつ)  「産土之地球神(うぶすなのちきゅうしん)」

 

 

迦護目(かごめ)の御神紋

天照皇大御神の象徴

総要 「天照皇大御神」

☆息津(おきつ) 「日輪太陽神(にちりんたいようかいしん)

☆湍津(たぎつ) 「宇宙産迂迦神(うちゅううがしん)」

☆東生      「天生零迦児神(あうむかごかみ)」

☆卯根      「月暦見満引神(つきよみみちびきのかみ)」

☆邊津(へつ)  「産土之地球神(うぶすなのちきゅうしん)」

 

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三津(みっつ)<三位一体の生命帯界>

産土之地球に生きる 

総ての植物

総ての動物

人間五色人(ごいろびと)

 

六津(むっつ)<伊勢生成の生命帯界>

三大太元帥(さんだいだいげんすい)

「植物の元親」 神漏樹六根神(かむろぎろくねのかみ)

「動物の元親」 神漏身六根神(かむろみろっこんのかみ)

「人間の元親」 伊邪那岐人神(いざなぎのひとかみ)

伊邪那身人神(いざなみのひとかみ)

 

 

総監督の天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)は、此の三・六(みろく)の神仕組みをお使いに成り、此の生命界が永遠不滅に栄え続ける事が出来る「知瑠恵(しるめぐみ)」を以って、幾百万とも幾億万とも知れぬ、数限りない姿形の息氣物(いきもの)を御生産出(うみだ)しに成られたので御座いました。

欲から発してくる知恵で「三角と六角」の化学ニュートリノの研究をする事は恐ろしく、直ちに止めなければ、全てがゼロとなってしまうやもしれず、神が警告を発してお出でになります。

 

 

かごめ かごめ

※たくさんの解釈があります

かごめ かごめ      

(豊受の神)

かごの中の鳥は      

(終焉のトリ)

いついつ出やる      

(何時 お出になるのか その時を待っている)

夜明けの晩に(月夜の晩に)

(末法末世の世、五六七・みろく世の到来に。)

鶴と亀がすべった

(物質中心主義の世が終わる)

後ろの正面だあれ

(後ろで見護って下さる天照皇大御神さま=創造主)

 

 

かごめ かごめ      

(天照皇大御神の御神理氣)

かごの中の鳥は      

(神の御神理氣によって生まれた霊命は)

いついつ出やる      

(何時 出してくださるのか その時を待っている)

夜明けの晩に(月夜の晩に)

(月に地球への案内を頼んで)

鶴と亀がすべった

(人祖が御降臨になり、その御子(長男)がこの地上生命界の主として顕現された)

後ろの正面だあれ

(後ろで見護って下さる天照皇大御神さま)

※神経綸の仕組みをあらわにしたり生命誕生の真実を出すと、迫害を受ける為、日神の御出現の世を待望する祈りをこのような童歌に秘めて遺されたのでした。

 

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13.太陽津(たいようかい)と丹生津(にゅうつ)の両部の施津(せかい)

宇宙産(うちゅう)を輪廻してゆく霊魂(たましい)は、全て生命の発生エネルギーを持っており、こうした一連のエネルギーが宇宙産運行の一助となっているようで御座います。

太陽(光生神父 こういしんぷ)のエネルギーは、丹生津(丹生神母 にしょうしんぽ)の障壁賀津(しょうへきがかい)に向けて放たれ、「丹生神母」は障壁賀の生命を兆す発生エネルギーを「光生神父」に向けて発しています。この両者のエネルギーが大きく反応し合って、この太陽系宇宙産を不変のものとしています。この相方の触れ合い氣色の施津そのままの写しが全ての生氣物に備えられて、太陽の施津は「雄蕊・雄・男」に、丹生津(宇宙産迂迦 うちゅううが)の施津は「雌蕊・雌・女」に授けられました。この両部の世界を空海さまは「金剛界曼荼羅」と「胎蔵界曼陀羅」に現し置かれたので御座いました。

こうしてそれぞれの遺伝子が、太陽で授かった亢進のエネルギーを寿命として再生してゆく事が出来る「産土之地球(うぶすなのちきゅう)」に、不滅の生命を誕生あそばされたので御座いました。

特に「理(ことわり)の人間」においては、三位が一体となった無限大の生命界の神仕組みを悟り、お互いに生かし合い、元々が霊魂(たましい)に「愛染生成(あいぜんいなり)」の悲願を戴いた一津(ひとつ)の身であったため、双津(ふたつ)に分けられた霊魂が一津になろうと慕い合ってか、伊勢生成(いせいいなり)の御神理氣(ごしんりき)が発揮され、お互いの伊勢(いせい)の性が伊邪那委(いざない)「所為愛(しょいあい)」をもって知らず知らずの蜜月の間に結ばれて、何時しか姿なき霊魂が形ある胎児として宿されるのが神明の神の具現であり、「天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)の賜物で御座います。

このように伊勢生成(いせいいなり)の神業(かみわざ)に従い、共に賛助し合い、生命の継承をする「憑軀子育(つくしだけ)」に励むよう神は願われたので御座いました。従って私たちの生魂(しょうこん)は、三組の親によって見守られているそうで御座います。まず天津(てんかい)の「光生神父(こういしぷ)」と「丹生神母(にしょうしんぽ)」。次が人間として最初にご誕生になった人祖「初代」伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)・伊邪那身命(いざなみのみこと)。そして直接肉体を生んでくれた両親で御座います。

 

KONICA MINOLTA DIGITAL CAMERA
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14.死後の霊魂(たましい)

伊勢生成(いせいいなり)の神業(かみわざ)に従って伊勢(いせい)が共に賛助し合い、次なる世代嗣子柱(よよししばしら)につなぎ留めて、生命界地球の生氣物としての生涯を終えた生命は、死によって亡骸から生魂(しょうこん)が抜け出し、「四十九日」の間は自宅を中心に身近な人に挨拶に回り、名残を惜しむのだそうです。しかし四十九日を過ぎますと霊魂となり、その執着から解き放たれて、「百か日」の間は、縁の遠い人、会ってみたかった人などに会いに行くそうです。その後「一周忌」までは、思い出の地や行ってみたかった所、行かねばならなかった所など、日本だけでなく海外へも行くそうです。これは次の転生にとって大切な事であるようです。そして地球全体を見渡して宇宙産(うちゅう)へと旅立ち、二年位掛けて「金星」に逝くようですが、人によっては年数は異なるようで御座います。

このような霊津(れいかい)の仕組みに合わせて、霊魂(たましい)が辿る道すがらを生氣(いき)ている私たちに教えたのが、七日、四十九日、百か日、一年、三年などの法要で御座います。家族・親族の方が、亡き人を偲んで手を合わせることによって、霊魂(たましい)も逝きやすくなると伺っております。そして無事に「金星」にたどり着いた霊魂(たましい)は、三津の生命(植物・動物・人間)がそれぞれの皮(屍)を脱いで渾然一体の「渾霊(こんれい)」となり、三津の霊魂(たましい)の喜びが一津となって、この世の楽しさとは比べられない程の志合(しあ)わせな施津(せかい)であるそうで御座います。この渾霊(こんれい)として完成するまでには百年ぐらいは掛かるそうですが、この世の百年よりは永いようです。

こうして三津の生氣物が皮を脱いで金星に逝くことを、「三途の川」を渡るという表現となったそうで御座います。私たちはお盆に、ご先祖さまをお迎えして供養していますが、、その時お帰りの精霊は渾霊(こんれい)となられた霊魂(たましい)のことらしく、この方々は何時でも帰ってくることが出来るようで御座います。

こうして常に恵みを豊受して、生命界の弥栄(いやさか)のために活動氣(はたらき)尽くして一生を終えた霊魂(たましい)は、輪廻転生(りんねてんせい)の霊神理氣(れいしんりき)の中で「金星」から「木星」に逝き、ここで清め固められて日輪太陽津(にちりんたいようかい)へ戻って逝くそうで御座います。この日輪津(にちりんかい)において、燃え焼き尽きて芒種のエネルギーとなり、地球上の生氣物を育てゆくので御座います。そして残された渾霊(こんれい)の器だけが元の「丹(に)」(生命の原子)となって、日輪太陽津に於いて、亢進のエネルギーにより寿命を戴き親光(しんこう)となって、再び輪廻転生の知瑠恵(しるめぐみ)の施津(せかい)に生産(うま)れ変わっていくそうで御座います。

しかしながら、自我の欲望から発してくる「知恵」に惑わされて、尊き命を蔑ろにして生命の弥栄を阻害する生氣方(いきかた)をした霊魂(たましい)は、その霊魂(たましい)に見合った示元(じげん)の星で修行するのでしょうが、神のお仕組みになられた「知瑠恵」の生命の施津(せかい)が理解出来ない霊魂(たましい)は、ついには冥王星まで逝き、施し助け合いの施津を再び認識するための難行苦行が待っているとお聴きしています。

そして更に生命界浄化のために仕組まれている事が、宇宙産(うちゅう)十三示元津の外の太陽の光の届かない「無生津(むしょうかい)」に追放される事で御座います。「奈落の底」とはこの事で御座いましょう。

平成十六年三月十七日(水)この日の新聞に、太陽系で最も遠くにある天体(冥王星)より遥か彼方にある「セドナ」を発見したことを、NASAが発表した記事が載っていました。これはもっと前に、米カリフォルニア工科大の研究グループが発見していたようですが、この天体の温度は摂氏零下二百四十度より上がらないとのことでした。この星は障壁賀の外にあって、追放された霊魂(たましい)はここへ逝くようで御座います。そして、それぞれの星で修行を終えた霊魂(たましい)は、地球に帰り金星へと旅立そうで御座います。人が亡くなると「ご冥福をお祈りします」と申しますが、冥王星い逝かないようにお祈りしたのでしょうか。

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15.五輪塔

生命誕生には、全ての恵みを御創造になる宇宙産(うちゅう)万有の「天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)」さまを初め、生命を生産(うみ)出すために欠く事の出来ない絶対なる五神理氣があります。その神々は、①日輪太陽津神(にちりんたいようかいしん)②宇宙産迂迦神(うちゅううがしん)<丹生津の神>③天生零迦児神(あうむかごのかみ)<遺伝子を司る神>④月暦見満引神(つきよみみちびきのかみ)⑤産土之地球神(うぶすなのちきゅうしん)

これらの神々を太古より敬いお祀りして来ました。生命はこの五段階に分化して誕生しており、この中を三津(つ)の生命が生と死を繰り返してゆく、この五輪の施津(せかい)を「五輪塔」で表し伝えて参りました。人が亡くなると、この五輪塔の施津を誤りなく上がって神上がり(成仏)出来るよう願い五つの石などを積んで供養していました。

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〇賽(さい)の河原の物語

地獄で、子供が石を積んで塔を作るのですが、鬼が来て直ちに崩してしまう。これは命として誕生できなかった霊魂(たましい)が、せめて石ででも、五輪の施津(せかい)を積み重ねて垣間見た切ないお話で御座います。

 

〇御帯団子(みたらしだんご)

生命が誕生する五輪の施津(せかい)を、五つ団子にして、絶対なる五神理氣を総監なさいます「天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)」さまの大御意志(おおみごころ)を串で貫き通して、太古より日本人にお与えくださっているお米で作り、神に感謝しながら味わい呑み込んだのでしょう。昔は神社の境内などで売っていたようです。

 

〇宇宙産(うちゅう)を塔で現す

「三重の塔」は、生命の元の丹をお生産(うみ)出しになる「日輪太陽津(にちりんたいようかい)」と、その丹をお受け止めになり、霊命遺伝子を生産(うみ)出しになる「宇宙産迂迦津(うちゅううがかい)」と、生命遺伝子が生産(うみ)出される「産土之地球(うぶすなのちきゅう)」の三津の基督(きとく)神理氣を塔に現されました。

「五重の塔」は、生命を生産(うみ)出しになる、絶対なる五神理氣「日輪太陽津神」「宇宙産迂迦神」「天生零迦児神」「月暦満引神」「産土之地球神」これらの神々を現すと共に、五輪の施津を表されました。

「十三重の塔」は、神が生命をお生産(うみ)出しになるために御創造になりました、宇宙産十三示元津を現されました。現在、奈良県の談山神社にありますが、全国で一ヶ所だけで御座います。

 

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〇生産祭(しょうぶまつり)<正腑祭>

熱田神宮では、今日も芒種の日に「尚武祭(しょうぶまつり)」が行われていますが、この真の意味が判らなくなり、武を尊ぶという字を当てています。しかし元々は「生産祭(しょうぶまつり)」<正腑祭>であり、日輪太陽津において丹(に)が寿命を戴き、生命の元が誕生する時にお活動氣(はたらき)になる神(熱い田の神)を讃えて、生命を戴いていることへの感謝のお祭りで御座います。

また五月五日の端午の節句を菖蒲の節句と言われていますが、これも「生産(しょうぶ)<正腑>」であり、「大正腑天神(だいしょうぶてんじん)の神」さまに、新たな生命を戴いた男の子が、正腑(しょうぶ)の霊魂(たましい)を持って元氣に成長して、生命界の弥栄のために貢献しててくれることを願うお祭りで御座いましょう。

 

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〇少子化

今日の生命界は、経済優先社会となり過ぎて、「正腑(しょうぶ)の霊魂(たましい)」を忘れてしまい、自我の欲から発する「知恵」を「叡知」と思い込み、永遠不滅の生命界の未来を阻害する霊魂(たましい)が多くなってしまいました。このような「正腑(しょうぶ)の霊魂(たましい)」が退廃した民族は、金星に逝くことが出来る霊魂(たましい)が少ないため「少子化」となると共に、人心が乱れて止めどもなく滅びてゆくのが運命(さだめ)であると、神が仰せになりました。

 

 

16.知瑠恵(しるめぐみ)

「全知全能全善(ぜんちぜんのうぜんぜん)」愛の御神理氣であります「大正腑天神(だいしょうぶてんじん)の神」は、恵みの連鎖によって善い事のみで重ね置かれた神羅万象を生産(うみ)出されて、終わる事のない生命界を御創造(おつくり)になりました。その中で生氣物(いきもの)が生氣る事によって他の生氣物の生活の場を造り、お互いを生かし合う素晴らしい生態系の中で生命(いのち)が営まれてゆきます。この「生(は)えて生(は)やす、生(う)まれて生(う)む、食べて食べられる」輪廻転生の食物連鎖の神仕組みの中に、生命界が永遠に照り輝くよう「知瑠恵(しるめぐみ)」の御神理氣を普遍的に生産(うみ)出して下さいます。従って全ての生氣物が漏るる事なく、飢える事なく、諸々禍事(まがごと)なく立派に成長し、全てが子孫を生産(うみ)遺し生命を継承して親と成る事が出来、生命が永遠となってゆきます。このような環境の国造りが根本であり、この「知瑠恵(しるめぐみ)」の極言は「緑」であるとお聴きしています。権力など作らず、武力の行使を認めず、人権民権を大きく和して、天が下を一軒の家と為す八紘一宇(はっこういちう)の御神性を貫き通す時、初めて神の倫理(みち)を歩むことが出来ると仰せで御座います。

私たち人間が「知瑠恵(しるめぐみ)」に撤しきることが出来れば、この邊津(へつ)<地球>の生命の宿地に人間が満ち溢れようとも、困る事のないだけの恵みと宝が集められていると仰せで御座います。「理(ことわり)の人間」の霊魂(たましい)の中には「知瑠恵(しるめぐみ)」が充満しており、物事を奥深く理解していけば、更なる恵みを生産(うみ)出していける素晴らしい生氣物として御創造下さいました。

しかし残念なことに、今世界中が権力欲で渦巻き、生命にとって掛け替えのない地球環境が破壊されつつあります。神は三と六の仕組みで生命を誕生させになりましたが、人間が化学でこの三と六の世界を操作しますと、生命界全体に狂いが生じ、生殖が不可能となって、ある日突然ゼロとなってしまうやもしれません。人間の欲から発した知恵・化学で文明が栄えたように見えましても、永遠の栄でないため何れ滅びる運命となりましょう。

近年、動物たちが人間の生活圏にまで侵入して来るようになりました。それ程に生態系が破壊されて来たのでしょう。また産業界にしましても、このまま進めていけば、公害廃棄物国家となってしまいます。特に懸念されますのが、原子力発電で御座います。命の元を脅かす非常に危険窮まりないものですので、今後は「知瑠恵(しるめぐみ)」の自然エネルギーで研究努力していくよう仰せで御座います。化学産業を野放しにしていますと行き詰まってしまい、何れ滅びゆく無の大陸となってしまいます。無から生まれた三と六の生命界が、神の大御意志(おおみごころ)に従えなければまた無に還るしかなく、遠い昔、アトランティスの大陸も欲から発した知恵の文明であった為、一夜にして海の藻くずとなったのでした。

『知「知瑠恵)の一番大切な天恵であります「瑠(る)」<永遠に照り輝く>を抜き捨て、知恵を凝らして武器を造り戦争を図り、人間が人間を殺し合う。これが天罰でなくて何でありましょうか。人間の知恵の浅ましさの有り様が、やがてこの地球を破壊し尽くしてしまう日が来るでありましょう。』このように神が仰せで御座います。

 

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先頭へ

日ノ本の国

1.日出ずる丹ノ本(にのもと)

現在の京都府与謝郡峰山町から元伊勢・天ノ橋立・大丹生(おにゅう)・舞鶴・若狭に通じる地域の「天記津州(あきつしま)」(神が定め置かれた生命の免疫所)に、御降臨・御降誕になりました人祖「初代」伊邪那岐尊(人間の生命継承権憲邪)の血脈系譜の大丹生家(天皇家)は、日本だけに今日まで継承されて参りました。生命の元であります「丹(に)」の故郷(ふるさと)が「太陽」であり、その生命遺伝子の故郷が、この日本の與謝津(よさかい)「天記津州(あきつしま)」の真名井原の丹庭(たにわ)であることから「日出ずる丹ノ本(にのもと)」日ノ本となりました。

 

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2.日の丸の旗印

こうした事から、日本の国旗は日の丸の旗印となっております。日輪太陽津(にちりんたいようかい)で生産(うみ)出された「丹(に)」が、地球で生命として生き逝く生命(いのち)の神仕組みを表しており「天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)」さまの御神聖を持って、真中に丹朱(たんしゅ)で真赤に染め抜かれている丸は、天津(てんかい)の彦根(ちゅうしん)であります日輪太陽(天津神津)を表し、白地の部分は、植物・動物・人間が三位一体となって生かされている、透明・純真・無垢・公平な真空光帯の施津(国津神津)を表しております。

天津(魂)という「縦の結び」と国津(魄)という「横の結び」を紅白の結びに置き換え、和久結びし、全ての中心や基本を大自然(太陽)に置くという思想も込めたものが「日の丸」です。

つまり、「火・陽・男」と「水・陰・女」の和合を表し、神羅万象の全ての命が生きる最高の喜びを表現した姿であり、神が生命(いのち)を生産(うみ)育む太陽系宇宙産の大調和(平和)の旗印で御座います。

 

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3.神の国

このように日本の国は、生命にとって一番大切な「天記津州(あきつしま)」の伝説伝承を有史し、霊命の「天津神(あまつかみ)」が「天記津州(あきつしま)」に御降臨されて、生命の「国津神(くにつかみ)」として御降誕になりました。「全ての生命の故郷(ふるさと)」である故に「神の国」と言われて参りました。

また日本には、生命を誕生させになるために、日輪太陽津(にちりんたいようかい)でお活氣(はたらき)になる「天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)を「熱田の神」としてお祀り申し上げ、宇宙産迂迦(うちゅうが)の障壁賀(しょうへきが)でお活動氣になる「丹生津(にゅうつ)の神」をお祀りされ、この生命界地球に人間の生命継承権憲邪としてご誕生になられた人祖「初代」伊邪那岐尊と伊邪那身命を「伊勢の神」として「伊勢神宮」にお祀り申し上げる、他に類のない国で御座います。

 

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4.君が代

「君が代」とは「天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)」さまの御神聖「民草和氣(くさなぎ)」の御代の事で御座います。またこの地球生命界に、植物・動物・人間の生命として直接に身生(みあ)れになり、生命界の安寧(あんねい)をお守り下さる「三大太元帥明王(さんだいだいげんすいみょうおう)」(生命継承権憲邪)の御代でもあり、この現象生命界におきましては、神の大御意志(おおみごころ)の「愛」と「正義」と「良心」でもって、絶対平和の民草和氣(くさなぎ)の御神聖に従い、政(まつりごと)を行う「大丹生天皇(おにゅうすめらぎ)」の御代のことで御座います。

このように「君が代」と「日の丸」の旗印は、世界平和を寿(ことほ)ぎ祝い目出る「天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)さまの象徴で御座います。この神現、日出ずる丹ノ本(にのもと)の国の真実を、神が全世界の人々に示されたのが、日本国憲法第一条と第九条で御座います。

 

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5.十八弁の菊の(聴区)の御紋

神は生命界を永遠に存続させるために、人祖「初代」伊邪那岐尊と伊邪那身命をお遣いになり、十九組の男女(めおと)を生産(うみ)育てさせになりました。そして長男・長女を大丹生家(おにゅうけ)<=天皇家(すめらぎけ)>とし、十八組を丹生家(にゅうけ)<=天皇家の分家>とされ、大丹生家を中心として、十八家の丹生家がそれを支えてゆく、その御姿が聴区の御紋で御座います。日ノ本の国の政(まつりごと)を行う国常立尊(くにとこたちのみこと)の元姿で御座います。

 

 

6.三種の神器

「勾玉(まがたま)」とは、生命となる前の霊命が天空を飛んでいる天津神(あまつかみ)の御姿を現した物で御座います。

「鏡」とは、霊命が天空より與謝津(よさかい)「天記津州(あきつしま)」に降臨され、生命と誕生あそばされた国津神(くにつかみ)の御姿で御座います。

「剣」とは、争いは絶対に致さぬことを誓う「御難賛助の御誓約(ごなんさんじょのうけひ)」の産霊(むすび)の契約を、形に現された象徴であり、民草和氣(くさなぎ)の剣で御座います。

人間の初めとして、宇宙産迂迦(うちゅううが)の障壁賀の天空より「天記津州(あきつしま)」に御降臨あそばされた人類の大祖人「初代」伊邪那岐尊・伊邪那身命、この初代の與謝身(よさのみ)「天皇(すめらぎ)・皇后(すめろぎ」以来、、継承し続けて来た国である為、日出ずる丹ノ本の国と言われてきた証(あかし)の象徴が「三種の神器」で御座います。

 

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「初代」伊邪那身命の御詞(平成十一年三月)

日本は世界の平和のために、全世界に先駆けて神の御神聖であります「日本国憲法第九条」を掲げて、世界平和を目指す国であります。

このような民草和氣(くさなぎ)の御神氣に徹し貢献しなければならない「聖国」日本の安全を脅かすものがある時に限り、神に代わって、この御神聖(九条)を運んだ国の責務において、日本国の安全を保障する義務を付加したのがアメリカであり、これが日米関係の根本であります。特に「日の丸」を掲げ「君が代」を合唱する日本人が、日本国憲法第九条を否定する時は、日の丸も、君が代も、天皇も、日本国も、地球の安寧(あんねい)も消えてなくなる時と認知するがよい。

このように仰せになりました。

 

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7.君が代の元歌について

文徳天皇(第55代)と女官・紀ノ静子さまとの間にお生まれになられた「惟喬親王(これたかしんのう)」に「藤原朝臣石位左衛門(ふじわらのあそんいしいざえもん)」はお仕えしていました。しかし、文徳天皇と皇后の藤原明子(ふじわらのあきらけいこ)さまとの間に惟仁親王(これひとしんのう)が誕生して皇位を継承された為、「惟喬親王(これたかしんのう)」は皇位継承権をなくされて、都を離れ江州(滋賀県)の君ケ畑にお移りになりました。「藤原朝臣石位左衛門」も、現在の揖斐郡春日村小宮神に身を寄せられ、主君「惟喬親王」さまの許(もと)へ、年毎にご機嫌伺いに上がっていました。

その道筋に、強い粘着力のある不思議な巌石(がんせき)を見つけられました。それは最初に見た時よりも凝結して大きく育っているよに想えて、そこに主君と臣(けらい)との絆を強くお感じになられて、

「わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」

とお詠みになられたので御座いました。上(神)に仕え従い千代に栄えることを寿いだ

お目出度い歌として、日ノ本の国の歌になり現在まで歌われて来ました。

 

さざれ石

この石は、学名、石灰質角礫岩(かくれきがん)と言い、石灰岩が永い年月の間に雨水で溶解し、その粘着力の強い乳状液(鍾乳石と同質)が次第に小石を凝結、だんだん巨巌となり河川の浸食により地表に露出したもの。

 

藤原朝臣石位左衛門さまの墓所であります春日村小宮神では、今もそのご子孫がお祀りをされています。

「惟喬親王(これたかしんのう)」は木地師といわれていますがそれは誤りであり、当時都の建設のために「惟喬親王」の許に、各地から木地師たちが大勢集められていました。しかし、都を奈良に造ることになり、木地師たちは職を失い、親王と共に君ケ畑に落ち延びて行きました。そのような中で、親王は轆轤(ろくろ)を考案された事から、木地師の祖と言われるようになりました。

 

 

「初代」伊邪那身命の御詞(平成十一年三月)

『日輪太陽から送られてくる親光(しんこう)を中芯に、月施津(せかい)より送られて来る零光とをつなぎ流されくる宇宙産(うちゅう)天光があればこそ、この地球に生命の誕生を観ることが出来た生命なれば、全ての生氣物の魂の奥底には、悠久不変の大自然の親光(しんこう)と零光に対し、尊敬感謝をする忠孝心を自然の内に知り育った「藤原朝臣石位左衛門(ふじわらのあそんいしいざえもん)」の時代の人たちには理解できても、現在の化学光学が産み出した電光の世界に、夜の闇を知らずに育って来た人現代人たちには、こうした忠孝心は生まれず、退廃し続けている人類社会を、今こそこの真実を正しく理解し、地球人の永遠の弥栄安寧を計り、未来永劫の生命帯魂に返らなければならぬのです。』このように仰せになりました。

 

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先頭へ

大丹生(おにゅう)童児・童女さま

1.天津(てんかい)より御降臨

人間の「生命継承権憲邪」さまは「天の意和戸(いわど)」にて、動植物に通し合わす「知瑠恵(しるめぐみ)」の魂を戴き、生命界の弥栄のために、神と「御難賛助の御誓約(ごなんさんじょのうけひ)」(どのような難儀があろうとも、争いをせずお互いに助け合って生きるという約束)を産霊(むすび)、北極星を通り月津(つきかい)に向けて飛び立たれたので御座いました。月津に到着された霊命遺伝子は、伊勢(いせい)に分けられて産土(うぶすな)の聖地・與謝津(よさかい)「天記津州(あきつしま)」まで敷かれた、目には見えない神との約束の帯に蔦(つた)い、丹波の国の「貴天原(たかあまはら)」真名井原の丹庭(たにわ)に、零迦児(むかご)として御降臨・御降誕あそばされました。この零迦児が成長し脱皮するまでには、二十年位の歳月を要しました。たまたま與謝海(よさかい)の浜に生えていた松の枝にあった鸛(こうのとり)巣が、風に吹かれて海岸に落ちていました。その中に成長された零迦児(瓢箪の形)が入り込んだ瞬間、海面が上昇して、巣が一気に沖に流されていきました。しばらく與謝の海を漂い、冠島の辺りで、ついに脱皮を始めたので御座います。それと時を一にして、どこともなく次々と鸛(こうのとり)が周りに集まり始め、空も隠れんばかりに丹波波動を響かせ、なんとも心地よい子守歌の如く、ついに海岸へと誘われたので御座いました。赤子の鳴き声は「丹生津(にゅうつ)」に通じる丹波波動で、生産(うまれ)来る生氣物に神がお与えになりました。この泣き声を聞きつけた動物たちが寄って来て、母親の役目を始めたのでした。こうして大丹生(おにゅう)童児・童女さまは育ち、動物たちと共に與謝津で暮らしてお出でになりました。

 

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2.若き狭間(若狭)

お二人は成長されるとともに、神がお与え下さる生成(いなり)<子を生み親となる>の身にされるため、天津(てんかい)より「愛染生成波動(あいぜんいなりはどう)」を童女さまにおかけになると、次第に異性を意識し始めになり、今までのように童児さまとご一緒に暮らせなくなってしまいました。一方、童児さまは、男として生命界を守り通してゆく「理(ことわり)」の人間として、六根の清浄をしなけらばならない時が来たことにお気づきでした。

そこで、神祇の地であります伊勢の地での再会まで、お互いに修行の旅に出る事を、話し合われました。現在の福井県下根来(しもねごろ)の八幡宮の境内のことでありました。

※下根来の「根来(ねごろ)」という字の付いた地名は、根が来られた、人祖がお出でになった地に付けられています。

 

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3.女の倫理(みち)を示す遠敷川(おにゅうがわ)

童児さまは、お一人で旅に出たいと思っていましたが、童女さまのことが少し気掛かりでした。しかしもう心配はいらないご様子なので、童児さまも決心されて、旅に出るご挨拶に行かれた時のことでありました。

童女さまは、突然の別れ話に驚かれて、これから何を頼りに生きて行けばよいのか判らず「嫌です 嫌です。」と言って、ついに大声で泣いてしまいました。童女さまは、あまりの悲しさに「丹生神母(にしょうしんぽ)」にお縋(すが)りになりました。すると天津(てんかい)より「よくぞここまで大きく育ってくれました。母は一日たりとも忘れることはなく、見守り続けていました。女としてこれからが大変な時となりますが、喜びも楽しみも溢れる程に有るのです。童児さまが言われるように適えてあげなさい。そうすれば立派な男の六根霊魂(たましい)を備え、あなたに志合わせを持ち還って下さいます。」とおっしゃいました。童女さまは、母に向かって許しを請うのでありました。

するとまた「丹生神母(にしょうしぽ)」がお出ましになり、『神が、生命を生産(うみ)出す元理としてお決めになられた運命(さだめ)は「日輪太陽」から放射される丹光(にこう)を、唯ひたすらに待ち受け留め入れて、丹生(にしょう)と生産(うみ)変えになる「丹生神母(にしょうしんぽ)」そのままに具現したのが、生命界の伊勢(いせい)で生成(いなり)の神仕組みであります。従って伊勢(いせい)の女の倫理(みち)は、永遠に下敷きでなくては成りゆかないのです。しかし、この下敷きがなくては一日も暮れない、そうした想いを起こさせた時、下敷きではなくなっているのです。今、童女の目の前を流れている川をこの記念に「遠敷川(おにゅうがわ)」と名付けましょう。』と仰せになりました。現在も若狭の小浜に、遠敷川が流れています。

 

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4.榊(さかき)

お一人になってしまう童女さまの不安を取り除いて差し上げるために、童児さまは榊(さかき)を植えてその前に座し、感謝の意志(こころ)を込めて語り始めました。

「この榊は、植物を代表する樹で、植物の元生産親(もとうみおや)「皇親(すめらかむつ)」神漏樹六根神(かむろぎろくねのかみ)の御姿と思って、日々神に感謝し、食べ物を大切に生きて行けば何も恐れることはなく、必ず御迦護(ごかご)を戴く事が出来るのです。どこに行っても植物を大切に榊の木に祈るのですよ。」と諭されました。すると童女さまは得心してうなずかれました。それを傍らで見ていた動物たちも安心した様子で、皆一斉に走りだし、赤土を舐めに行きました。お二人も行かれて、童児さまがその赤土の上に「山入」と書かれたので御座いました。

現在は「入」が、いつしか「八」となって三八(さんぱち)神事になっているそうです。また神社で行われている「玉串奉奠」の作法は、この榊を植えて置く事を現して、動物・人間を生かす樹木を絶やしてはならない伝えであり樹木への感謝を現しています。

 

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5.大丹生送(おにゅうおく)りの鵜の瀬(うのせ)

童女さまは、若狭の小浜にあります「遠敷川(おにゅうがわ)」の鵜の瀬(うのせ)まで、童児さまをお見送りに行かれました。しかしあまりの名残惜しさに、「ここで別れよう。」とおっしゃった童児さまの言葉を振り切るように、「もう少し先まで送らせて。」と言って、川上に向かって駈け出され、河を渡って小石原の上に倒れ込み、声を上げて泣き伏してしまいました。すると一緒に付いて来ていた動物たちも、童女の周りに座り寄り、一斉に吠え鳴くのでありました。この地は現在の鵜の瀬に在ります白石明神の辺りで御座います。この「白石」とは、大丹生童児さまを現しています。

※鵜の瀬の大丹生送りが、現在では、東大寺の二月堂で行われます「御水取り」の行事となっています。旧暦の二月(三月一日から十四日間)に行われ、鵜の瀬の神宮寺の閼伽井(あかい)<若狭井>の水を汲んで二月堂に運び、仏前にお供えし、回廊では童児が松明を振り回します。

縁ある地からそれぞれの地へと、御神水を神さまへとお運びし、お供えする神事を否定する方々もいらっしゃいますが、このような神事を伝統として伝えて下さってるからこそ、歴史も消されることなく遺されることになります。とても大切なことと思います。

 

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6.大丹生童児(おにゅうどうじ)さまの修行の道

お二人は再会までの約十年間、それぞれの修行の旅に出られました。童児さまは、現在の京都の暗間山(鞍馬山)の方へ向かわれ、童女さまは現在の琵琶湖の北の「七七頭ケ岳(ななななずがたけ)」の辺りで、雌の動物たちの中で女の修行をなさいました。

※暗間山の名前が暗いという字になっているのは、山間の木々がうっ蒼としていて、童児さまの足下が薄暗くて、時々木の根っこに足を取られそうになられたことから、暗間山となっているそうで御座います。

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童児さまは、暗間山から亀岡・能勢を通られて、加古川(兵庫県)を下り海に出て行かれました。この辺りは食べ物が豊富にあり静養なさいました。その後は海沿いに行かれ、岡山の吉備の辺りに暫く滞在になり、吉備高原を川沿いにお進みになり、蒜山(岡山県)の辺りまで行かれました。そして比婆(広島県)・石見の国(島根県)の山地を通られ、海をご覧になりながら、山口県の端の長門まで、足を運ばれたので御座いました。そこの岬の山の上から、遥か彼方(朝鮮半島)を眺めてお出でになりました。

その後はまた暗間山にお帰りになり、しばらく休養されて男としての悟りをなさいました。山々を歩いての「六根清浄」とは、大自然を相手に「六根の同時意発」をし「六原の宇宙産(うちゅう)の意志」をどう理解し悟っていくか、これが童児さまの旅姿で御座いました。ふと童児さまが気が付いてみると、一緒についてきている動物たちは、皆雄ばかりでありました。いろいろな事を思い巡らせていかれる中で、いつも最後には童女さまのことが気掛かりでした。

神の大御意志(おおみごころ)であります生命界の永遠の弥栄の為、子孫を繁栄していかなければならない。そうした時、子供を生産(うみ)残してくれる女性の役目の大きさを想うと、子育てをする女性を労り、自分の身も清くし、女性が頼れる尊い器を持つ男でなくてはならないとお観じになり、この地を「貴船(きぶね)」<尊い器>となさいました。

※大丹生童児さまのことを「貴船神」とも言われています。現在この地には「貴船神社」が建てられています。

 

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その後は、比叡山へ行かれ、そこから南へ下り醍醐寺・宇治・星田妙見、そして生駒・飛鳥の辺りには入江になっており、大和川を渡り当麻寺から金剛山脈にお入りになり、千早・和泉・和泉山脈から和歌山浦へお出でになりました。そこで淡路島・四国を確認されて、その後は根来寺(和歌山)辺りに行かれました。ここはとても住みよく一冬をお過ごしになり、春になって粉河寺の辺りから紀ノ川の中州をお歩きになって紀州に行かれました

高野山奥の立里荒神(たてりこうじん)の辺りの山より太平洋をご覧になりました。そうしますと、水平線が湾曲しているのが不思議に思われ、何か腑に落ちないご様子でいました。しかし動物たちが、何やら湯気の出ているところで頭だけ出しているので、何であろうとそちらが気に掛かり、童児さまもそこへ行って試してみられたのでした。するとなんとも心地よく、先程の思案投げ首も一転してしまいました。(後に笠塔山の辺りで地球が丸いことにお気付きになりました)これこそ、人類が最初に体験した温泉でありました。現在この場所は龍神温泉となり「役小角(えんのおづぬ)」さまが発見され、その後に「空海」さまが広めていかれたそうで御座います。童児さまは、それから五條から「吉野」へと、「暗間山」をお出でになられてから八年余り、人類のために御創造下さいました大自然と動物たちとの中に、神を観ていかれた永い旅でありました。

 

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①吉野山の悟り

大丹生(おにゅう)童児さまは、「吉野山」より「山上ケ岳」に向かわれる時、宇宙産(うちゅう)十三示元津(じげんかい)の両部で行われている霊命の誕生を、この「吉野山」に写され、神現・霊現への峰倫理(みち)として、太陽より金玉(こんぎょく)を戴いた男の六根「眼耳鼻舌身意」が、同時に意発する體魂(たいこん)となって、生命を御創造になられたご神理氣を悟ることが出来る神現の山とされ、植物・動物・人間として誤りなく、この生命界を治めていける體魂(たいこん)となるための修験の道となさいました。

そしてこの吉野山の頂上に、三津(つ)の岩をお立てになり、三位一体の「生命継承権憲邪」をお祀りになりました。この憲邪さまを通して、生命誕生の神仕組み、輪廻転生の修験の大道を悟り、人類が忘れることなく後世まで伝えてゆき、終わりなき命の弥栄を願われたので御座いました。

 

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大丹生童児さまが歩かれた道

與謝海の只中で脱皮され➡大丹生➡綾部➡園部➡丹波山地➡若狭(小浜)➡鵜の瀬➡下根来➡染ケ谷➡鞍馬・貴船➡愛宕山➡亀岡➡能勢➡篠山(ささやま)➡書写山➡揖保川➡相性➡吉備➡比婆山➡長門の川尻岬➡鞍馬➡四明岳➡比叡山➡大文字山➡音羽山➡醍醐山➡宇治➡星田➡生駒山➡當麻➡金剛山地(千早)➡和泉山脈➡田倉崎➡根来➡かつらぎ➡高野山➡北股➡護摩壇山➡笠塔山➡龍神➡護摩壇山➡北股➡和田➡吉野山(創根ケ峯)➡大天井ケ岳➡山上ケ岳➡大晋賢岳➡大台ケ原山➡大内➡伊勢(神祇の地)

 

②神祇(しんぎ)の地・弥丹庭(やにわ)

大丹生(おにゅう)童児さまは山上ケ岳の東の峰で、自らが人間の「生命継承権憲邪」であることの自覚が出来、この事を悟るまでの永い旅で御座いました。その後童児さまは山上ケ岳から普賢岳に抜けて大台ケ原に入って行かれました。そこより水に付いて下りなさいとの「光生神父(こういしんぷ)」さまのお導きにより、宮川の支流の大内に出られ、そこより本流に沿って「神祇(しんぎ)の地の弥丹庭の森」に行き、童女さまを待つよう導かれたので御座いました。

 

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7.大丹生童女(おにゅうどうじょ)さまの旅姿

①名付けケ岳の由来

童女さまは童児さまと別れて、一年位は小浜の彦宮辺りにお住まいになっていました。春になると動物たちが騒がしく、その様子を見ていると童児さまのことが気掛かりで、ついに童女さまは、童児さまを訪ねて旅立たれたので御座いました。丁度、琵琶湖の近くの山に到着して、周囲の景色を御覧になっていた時、何か赤子の鳴き声がするので見に行くと、一緒に付いてきた動物が、土の上に赤ちゃんを産んでいるので、童女さまは「あらあら、ここまで我慢して来たのね。」とおっしゃって、その動物の世話をしていると、次々と動物たちにお産が始まったのでした。童女さまは、この山で生まれた動物たちに名前を付けてやりました。この事から、この山を「名付けケ岳」と呼ぶようになりました。しかし、この山を横から見ると、七つの頂きが見えることから、現在は「七七頭ケ岳(ななななずがたけ)」と呼ばれています。

 

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②名付けケ岳の観音さま

「名付けケ岳」の頂上にあるお寺に、観音さまがお祀りされているそうで御座います。そしてこの山の麓に「下丹生神社(しもにゅうじんじゃ)」が在り、その神社の傍らのお宅には「孕観音(はらみかんのん)」のお軸が掛けてお出でになります。これは「初代」伊邪那身命さまが身籠(みごも)られたお姿で、白い観音さまが描かれています。この時に「初代」伊邪那身命さまがお出ましになり、「これは、私が書かせて置きました。」とおっしゃったそうで御座います。「初代」の命(みこと)さまは三十八名の御子をご出産になり、身籠られる度にこの山にお詣りされたそうで御座います。そしてご誕生から一年位して、その御子を背負われてお礼詣りをなさいました。驚いたことに、現在も地元の方々は、「初代」の命(みこと)さまと同じようにお詣りをしているそうで御座います。

 

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辨天(べんてん)さま

童女さまは琵琶湖に在ります竹生島(乳首島)に、方位と行く道先を見定めるためにお登りになりました。その時、、初潮をお迎えになり、女性として子供を生産(うむ)ことが出来る慎みの生身「辨天」の神体霊魂(たましい)となられたので御座いました。唯一人だけ許すことの出来る男性と、我が子への真実潔白のため、疑わしき意志霊魂(こころたましい)を近づけず、避け退け生氣(いき)る「辨天」の生身・子生産(うみ)の霊魂(たましい)を嶋に囲い守り、嗣子孫々(ししそんそん)に至るまで生命界の弥栄(いやさか)を続けていたので御座います。それ以来「辨天さま」を嶋へお祀りして、その霊魂(たましい)をお伝え下さるとともに、嶋でなければ生命は成熟しないことをお示し下さいました。

こうした太古の神姿をそのまま遺せましたのも、嶋国であったからで御座いました。しかし、現在の日本は悲しいことに、このような嗜(たしな)みが崩れ、各家庭にこの精神が薄れつつあります事が、今問題になっております幼児虐待というような、あるまじき状況を生んでいるようで御座います。そのために「初代」伊邪那身命さまが「辨天」として示し置かれました。

今、日本の人々は我が国が人祖の国である事が解らなくなり、嶋へお祀りされている「辨天さま」の真意も消えて、こうした神の御意志(みこころ)を受け継ぐ女性の霊魂(たましい)が少なくなったところから、日本列島の滅びが始まったようで御座います。女性は子孫にいろいろな事を忠実に伝え遺していく役目があり、これらの役を「初代」伊邪那身命さまが担ってお出でになります。女性には「命(みこと)」という字を使っていますように、自らの生身を分けて命を継承していくのですが、この新たな生命(いのち)を生産(うみ)出す時、女性の霊魂(たましい)は純粋でなけらばならず、新しい生命をお宿し下さいました神と、夫への感謝と、子供を授かった喜びに溢れていてこそ、身を分けた新しい生命(いのち)が心身ともに健全であれるのでしょう。女性にこの精神がなくなる時、親子の信頼が崩れ断絶となっていくので御座いましょう。

「辨天」(女性として子供を生産(うむ)ことの出来る期間の身)の生身が、この事を確と心に留めておかねば、世が乱れて生命界の危機を招くことになると仰せで御座います。今は女性が一番乱れているので、その乱れ心を鎮めるために、女性としての倫理(みち)であります「女の吉野山」、すなわち「名付けケ岳」を出すようにと「初代」伊邪那身命さまが仰せになりました。

 

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④天の羽衣伝説

琵琶湖の北にあります余呉湖(よごこ)の辺りには、かつて余呉丹生家(よごにゅうけ)が在りました。天武天皇の時代には、特に人祖の事を語ることが禁じられていました。そこで余呉丹生家の人々は、我々は天津(てんかい)から降りた天如(てんにょ)の子孫であると言って、「天の羽衣伝説」が誕生したのでした。

神武権力に楯ついた丹生家は、ほとんど部落にさせらていますが、この辺りの人々は、仕方なく権力に従っていかれたのでしょう。部落にはなっていません。この地には「上丹生神社(かみにゅうじんじゃ)」と「下丹生神社(しもにゅうじんじゃ)」」が在り、「上丹生神社」には八幡造りの形が遺されていて「八幡大神」がお祀りされています。一方「下丹生神社」には「初代」伊邪那身命さまがお祀りされています。

 

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⑤ゆうたすき

初潮をお迎えになりました童女さまが、子を生産(うむ)ことが出来る生身を擁護する麻衣を編み出されて身の慎みをなさり、左肩から右下に斜めにお掛けになり、身にまとわれました。これが人類衣服の初めであり、子生産(うみ)の生身「辨天」の体魂を守り通し、未来永劫に伝え遺してゆくために、人祖の国の神祀りの作法の中に「ゆうたすき」をして、示し置かれました。僧侶の袈裟なども、麻衣に因んだ作法であると伺っております。

 

⑥火を熾(おこ)す

童女さまは多賀の栗栖(くりす)の地を離れ、現在の保月(ほづき)の辺りでのことに、檜(ひのき)の巨木がうっ蒼と生い茂り、風の強い日などには枝と枝とが擦れ合って火を放ち、その枝が落ちて来ることもありました。そこでこの枝を使って火を熾し、食べ物を焼いて食べる事が出来たので御座いました。

 

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⑦素焼きの土器

童女さまは、員弁(いなべ)川の辺りの麻生(あそ)神社の辺りで、動物たちが舐めていた粘土で色々と細工をしていました。その中の器を、動物たちが焚き火の中に落としてしまった事から、偶然に素焼きの土器が出来上がりました。

 

 

⑧束帯(そくたい)と十二単(じゅうにひとえ)

童児さまと童女さまは「天の意和戸(いわど)」において「御難賛助の御誓約(ごなんさんじょのうけひ)」をされて、天津(てんかい)と地上とを結ぶ「約束の帯」に蔦い御降臨あそばされました。この約束に基づき、成人された暁に、この「約束の帯」を束帯に替えて身にまとい、改めて「御難賛助の御誓約(ごなんさんじょのうけひ)」の更新をされる「大嘗神祇祭(だいじょうしんぎさい)」に、大丹生家(おにゅうけ)の天皇として着帯になる束帯と、大丹生家の皇后として着帯になる十二単(生命界十三示元を織り込む)を、員弁の麻生麻生(おうだあそ)の地で完成させたので御座いました。

この神聖な天津(てんかい)と地上を結ぶ、長い反物を身にまとう日本着物文化の原点がここにあありました。また、丹生家の人々がお住まいになっていた所には、必ず「麻畑」が在り、束帯を身に着けて神祀りをしていたものと思われます。員弁の麻生田・賀茂族の当麻寺の辺り・飛騨の丹生川村の麻畑などが御座います。

 

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大丹生童女さまが歩かれた道

 

若狭の小浜➡七七頭ケ岳➡菅山➡余呉町➡乳首島(竹生島)➡醒井➡栗栖の里 調宮神社➡保月➡時山➡饗庭(あいば)神社➡麻生田神社➡平郡神社➡御在所➡玉渇水(三重神社)➡多気大明神➡伊勢神宮

 

 

8.大嘗神祇祭(だいじょうしんぎさい)

童女さまはお二人の束帯を背負われ、丹生津(にゅうつ)の母のお導きを戴き、北伊勢から「伊勢の弥丹庭(やにわ)の森」までお行きになり、童児さまと八年ぶりの再会を果たされたので御座いました。それは半ば月夜の「七夕の宵月(よいづき)」の時でありました。現在の「月夜見宮」の宮内(みやうち)で御座います。

大丹生童児さまは大丹生家(天皇家 すめらぎけ)として、天津にて神と契約された「御難賛助の御誓約(ごなんさじょのうけひ)」の更新を行う「大嘗神祇祭(だいじょうしんぎさい)」が約束されていました。そこで童児さまの案内で、神祇の地内を隈なくお訪ねになり、神祀りに相応しい所をお求めになりました。そして、現在の内宮神苑で神楽(かぐら)がおこなわれている場所の辺りにお決めになり、第一回の御誓約(うけひ)の更新のために、神々をお招きになる準備をなさいました。

伊勢の神筋山(かみじやま)を「天津神理氣(あまつしんりき)」、国見山を「国津神理氣(くにつしんりき)」と定められて、その両仙から流れ出ずる意素住川(いすずがわ)<神の意志が住む川>を背景に、生命生産(うみ)出しの「絶対なる五神理氣(ごしんりき)」と、植物・動物の元生産親(もとうみおや)さま「生命継承権憲邪」をお祀りされました。

早速、束帯と十二単に身を包まれたお二人は、うやうやしく神々の御前にて「大嘗神祇祭(だいじょうしんぎさい)」を挙行あそばされたので御座いました。それとともに「御即位の大礼」もされ、「初代」伊邪那岐尊「初代」伊邪那身命をお名乗りになりました。天津(てんかい)より降臨あそばされた「天皇(すめらぎ)」として、国を治める事は大変難しいことながら、決して争いをせず、お互い助け合いながら生命界を守り抜く事を誓われたので御座いました。

 

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9.丹紫(にしき)の御旗(みはた)

お二人が神に結婚のお許しを申し出られた時、生産(うま)れて来る子供たちに、神と人との約束事をどのように伝えていくのか、神がお訊ねになりました。すると「初代」伊邪那岐尊さまが「生命生産(うみ)出しの絶対なる五神理氣を旗印の中に織り込み、嗣子孫々に至るまで伝えてゆくと同時に八和幡之大神(やわたのおおかみ)をお祀りして、神の大御意志(おおみごころ)に添って生きるように伝えます。」とお誓いになりました。そして成人の暁にはこの「丹紫(にしき)の御旗(みはた)」を代々渡していく事を約束なさいました。その後、お二人は結婚が許されて、三十八名の御子を生産(うみ)育てる事が約束されたので御座いました。

 

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10.憑軀子育(つくしだけ)の施津(せかい)

ここに初めてお二人は、伊勢生成(いせいいなり)の身業(みわざ)「憑軀子育(つくしだけ)」の施津(せかい)にお入りになられ、男と女の「所為愛(しょいあい)」氣繰理(きくり)の施津(せかい)に身を委ねられたのでした。そしてしばらくの間、天津神(あまつかみ)と国津神(くにつかみ)をお祀りする「五社三門(ごしゃさんもん)」にお仕えしていましたが、神さまより、栗栖(くりす)に帰り「憑軀子育(つくしだけ)」するようにとの御詞(ことば)を戴き、武奈(ぶな)山と比婆(ひば)山の合間を通り抜けた、芹川(せりがわ)の辺りの栗栖の山里に向かわれました。

 

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11.饗庭(あいば)

その途中の事、伊邪那身命さまは藤岡(いなべ市藤岡町上相場・饗庭神社)の花の下で藤の実に触れた瞬間、女の直感でありましょうか、妊娠している事にお氣付きになりました。伊邪那岐尊様も大層お喜びになり、しばらくこの地に滞在することになりました。そこで、この藤の下の地を「饗庭(あいば)」と名付けられたので御座いました。

 

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12.御子の誕生

饗庭(あいば)を出て栗栖(くりす)の里(現在の調宮神社の辺り)に着かれたお二人は、寝倉をお造りになり、ここで住み暮らすことになりました。ここでの生活に慣れた初秋のある日、ご長男がご誕生になりました。拳をかつぎ雷(いかづき)、真っ赤な顔で丹波波動を響かせる元氣な御子でいらっしゃいました。次にお生産(うま)れになられた御子は、それは可愛らしく、美しい玉のような女の子でありました。伊邪那岐尊さまが「玉依(たまよ)りじゃ、玉依りじゃ。」と仰せになり、何時しか、女の子の美称代名詞が「玉依姫(たまよりひめ)」となってゆきました。その後も、男の児、女の子と順序良くお生産(うま)れになり、食べ物が豊富な芹川沿いの栗栖の里で、三十八名の御子を生産(うみ)育てになりました。

 

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13.大丹生家(おにゅうけ)と丹生家(にゅうけ)

このように男子十九名・女子十九名と、神がお仕組みになり、御長男と御長女を大丹生家(天皇家 すめらぎけ)とお定めになり、後の十八組の夫婦を丹生家(天皇家の分家)とされて、日出ずる丹ノ本(にのもと)・初めの国の元をお造りになりました。

 

〇七夕祭り

彦星と織姫星が、年に一度会うという伝説に基づき、七月七日に行われています。この基となりましたのが、大丹生童児・童女さまの再会で御座いました。童女さまは一人旅の途中で、麻生田(おうだ)の地にて麻木草の繊維で麻布を編まれて、衣服の元をお作りになられたことから、織姫として伝承されて来ました。

「七」という数字は「生(な)り成(な)り也(な)り鳴(な)る」という天地創造の原理を秘めており、その数霊の(かずたま)の働きをしています。

天地創造・人類創造神の御出現を待つ祈りであるというのが、七夕祭りの本義であります。

 

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〇四国に遺されていた丹紫(にしき)の御旗(みはた)

徳島県三好郡祖谷山村平家屋敷の阿佐家に「丹紫(にしき)の御旗(みはた)」が遺されていました。丹朱と紫の二色で交互に染められ、生命生産(うみ)出しの絶対なる五神理氣(ごしんりき)が織り込まれ、八幡大菩薩と最上段に書かれています。現在、遺されている旗は平安初期に作り替えた物で、当時は仏教全盛期であったために菩薩となっていますが、本来は八幡大神(八和幡之大神(やわたのおおかみ)でありました。阿佐家の方も、ご先祖さまよりこれは御旗であると聴いていると、仰っておられました。またこの旗を収めている箱が「契約の箱」であると神が仰せになりました。

 

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〇星祭り

寺院などで星祭りが行われていますが、この星とは遺伝子を表し、植物の胞絲(ほし)・動物の哺孖(ほし)人間の哺孖(ほし)であり、この地球に降ろされた三津の生命遺伝子により、生命界が弥栄(いやさか)であるよう祈り、生命(いのち)を戴いたことへの感謝を捧げるお祭りで御座いましょう。

 

〇三三九度

結婚の儀に際し、二人がお互いに杯を三回づつ酌み交わし、夫婦の契りを致しますが、この三とは、

① 日輪太陽津神   (生命原子丹を生む。植物・動物・人間の生命原子)

②宇宙産迂迦神    (霊命遺伝子を生む。植物・動物・人間の霊命)三大蔵王権現

③産土之地球神    (生命遺伝子を生む。植物・動物・人間の生命)三大生命継承権憲邪

これらの神々に夫婦になる事を誓い、伊勢生成(いせいいいなり)の神仕組みの施津(せかい)に身を委ね、新たなる生命を継承してゆくことを寿いで戴けるよう祈り願う儀式で御座います。

 

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〇白無垢(しろむく)

女性が結婚式に身にまとう白無垢は、天津(てんかい)の神さまの天波とご自身の念波とが、白という色によって何の障害もなく交流し合い、神がお仕組みになられたそのままの姿「辨天の生身」となり、お相手に如何様にも染まりますという姿で御座います。

 

 

〇三礼三拍手

太古よりお祀りされている日本の神は、生命を生産(うみ)出される時にお活動氣(はたらき)になる神々さま故、その中心の「息津(おきつ)」日輪太陽津神(にちりんたいようかいしん)と「湍津(たぎつ)」宇宙産迂迦神(うちゅううがしん)と「邊津(へつ)」産土之地球神(うぶすなのちきゅうしん)の三神さまへの尊崇の念と感謝を込めてお参り致しました。

 

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〇万歳三唱(ばんざいさんしょう)

これも同じく、生命生産(うみ)出し、生かし育んで下さる「息津(おきつ)」日輪太陽津神(にちりんたいようかいしん)と「湍津(たぎつ)」宇宙産迂迦神(うちゅううがしん)と「邊津(へつ)」産土之地球神(うぶすなのちきゅうしん)の三神さまへ感謝し喜びを表します。

 

 

〇獅子舞

御祭りやお正月に行われます獅子舞は、嗣子孫々(ししそんそん)に生命(いのち)を繋ぎ留めていけるよう、生命の弥栄を願う舞いで御座います。

 

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先頭へ

「大和詞(やまとことば)」誕生の地

1.三八子(みやこ)<都>意志呉(いしぐれ)<石槫>

栗栖(くりす)の地において、親子が切磋琢磨し合い、様々な工夫を凝らして生活に勤しんでいかれました。そんなある日のこと、天津(てんかい)より「三十八名の御子全員を一人残らず連れて、霊仙山(りょうせんざん)の山頂に来るがよいでありましょう。」との御詞(ことば)がありました。

伊邪那岐尊さまは、伊邪那身命さまと話し合われ、早速に全員をお集めになり霊仙山に登りました。全員が頂上に到着するやいなや、天津(てんかい)より「直ちに三十八名の者達を輪にして、一人ひとり順序よく大きな声で違った発声を唱えるがよいでありましょう。」との御詞(ことば)に全員が無言で、長男・長女・次男・次女と順序よく手を取り合って、大きな輪になっていました。そして次の御詞(ことば)をくみ取ろうと耳を澄ましていると、思いがけず、長男の「別雷尊(わけいかづちのみこと)」が天に向かって大きな声で「ァー」と発声すれば、天津より「イー」と言霊が返されて来るではありませんか。続いて長女の「玉依姫命(たまよりひめのみこと)」が大きな声で「ウー」戸発声すれば、天津より「エー」と同じように返されて来るのでした。続々と言霊が返されて、最後の御子が「ポー」と発声すれば、天津よりよく出来ましたという意味を込めて、「ンー」と返されてきたので御座いました。こうして生命界よりの三十八音(おん)と天津よりの三十八音(ね)の「霊験言霊(れいげんことだま)」を合わせた、七六(なむ)<南無>の言霊が誕生したので御座います。そしてこの言霊によって、大きく和してゆく「大和詞(やまとことば)」を完成させてゆくには、孫たちの三代が協力しなければ出来ないこと故、今まで住み慣れた栗栖(くりす)の里を離れて、麻生田(おうだ)の地を大安の安らぎの里と定められ、三代で住むことになりました。そして神の大御意志(おおみごころ)を一日でも早く頂戴したいと言う願いから、この地を「意志呉(いしぐれ)<石槫>」とお呼びになられ、そこの峠を「意志呉峠(いしぐれとうげ)」と名付けました。

この生命界は施し助け合いの大連鎖の神仕組みが根幹となっている事を正しく伝え遺して、天上神霊界とこの生命界とが一津一体であることを悟り、大きく和志合(わしあ)い和み行くことが出来る「詞(ことば)」、生命を産み出す絶対五神の五輪の門に通じ合うことが出来る真言・門字(もじ)を、七十六音の霊験言霊でその意味を理解することが出来る「言詞(ことば)」「摸字(みじ)」を、御子たちと孫たちと一緒になって生み出されたので御座いました。

この「南無(なむ)の霊験言霊」により、私たち人間の安全を保障志合うことができ適う「大和詞(やまとことば)」の「言霊門字(ことだまもじ)」の完成で御座いました。(故に、人間の安全を保障するものは、人祖が神と交わした争い戦いはせず、大調和する七六・南無(なむ)の言霊でもって生き抜くことでありました。)

このことを記念なさいまして、この石槫(いしぐれ)の地を神にお仕えする大和民族の「三八子(みやこ)<都>」と定められ、大丹生天皇(おにゅうすめらぎ)を中心として、丹生家一門(にゅういちもん)で天皇家を補佐してゆくようお命じになりました。

「三八子(みやこ)」は現在の三重県いなべ市大安町石槫(いしぐれ)、この意志呉(いしぐれ)の地は、天津(てんかい)と地上生命界とが一津であることを証明した「大和詞(やまとことば)」を生み出し、太古の大和の国を誕生あそばされた聖地であるため、全ての生氣物の永遠な弥栄(いやさか)を念願し、命の根の毛(氣)を表す「賀毛(かも)の大神」を八重(やえ)にお迎えしてお祀り申し上げているので御座います。

 

 

賀毛(かも)神社(三重県いなべ市北伊勢町垣内)

この上社は「天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)」「日輪太陽津神(にちりんたいようかいしん)」「宇宙産迂迦神(うちゅうがしん)<丹生津の神>」「天生零迦児神(あうむかごかみ)」「月暦見満引神(つきよみみちびきのかみ)」「産土之地球神(うぶすなのちきゅうしん)」の六神がお祀りされていました。

 

 

鴨神社(三重県いなべ市大安町丹生川上)

この下社には、天津(てんかい)より御降臨・御降誕あそばされた人祖「初代」伊邪那岐尊・伊邪那身命と、その御子の、この生命界で最初に御誕生になられた「別雷尊(わけいかづちのみこと)」をお祀りしていました。

 

 

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2.鶴と亀

 

カゴメ歌にしても鶴と亀にしても、次元によって解釈は何通りもあります。

生命の根源的本質にあるのは「左右2方向生を持った渦」と「進行」であります。つまり、2種類の自転方向を持ちつつ進んで行くベクトルです。そして、今ひとつ大切な事実は、「この大宇宙の空間そのものが、物質の有無に拘らず、常に回転している」と言う事です。我々が何物にも囚われない、「自由自在」を得た時、眉間の「第三の眼」が開き、「回転する大宇宙の空の法輪」に感応する「ホロニック・・ジャイロスコープ」としての「多機能・多能力センサー・マシン」が活動を始めます。これの極りを「成道(じょうどう)」と言います。それは、「一」が「多」や「全」をコントロールできる状態です。この世とあの世の全ては「進行する渦巻き」の世界です。「渦巻き」は「求心力・引力」と「遠心力・斥力」を同時に持ちます。引っ張りながら、遠ざけるから、ある状態で定常状態が生まれます。「渦巻き」は「スピン共鳴」するから、情報伝達「以心伝心」が可能となります。そして秩序や法則が生まれ、意識や記憶や思考が生まれます。更に、方向感知が生まれます。

全ての「物」の本体は結合する「力」であり、その力の作用した「むすひ」の賜物です。その力ことが「神」なのです。

天上神霊津(てんじょうしんれいかい)より御降臨になり、大和国を経綸あそばあされた人祖「初代」伊邪那岐尊・伊邪那身命さまの御霊魂(みたま)を「鳥」の字をもって鸛(こうのとり)と顕現あそばされ、その御子で、この生命界で一番最初にお生産(うま)れになられた「別雷尊(わけいかづちのみこと)」の御霊魂を「甲」で現し、この地上生命界の主と顕現あそばされたので御座いました。ここに、鶴と亀を吉兆の初めとして、大和の国の大安の地「意志呉(いしぐれ)」に「鴨神社」としてお祀りされたので御座いました。

 

 

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3.京都上賀茂神社と下鴨神社

京都にあります上賀茂・下鴨神社は、今から二千七百年前の饒速日(にぎはやひ)天皇の御代(みよ)、九州より神倭伊波礼毘古尊(かむやまといわれひこのみこと)が東征してして、大丹生家(おにゅうけ)<天皇家>丹生家を制圧し、神武天皇として即位しました。しかし、全く丹生家の人々を無視することは出来ない為、少しでも協力してもらいながら神武政権に移行していこうと下手に出て、神武天皇より三代目の天皇の頃に、石槫(いしぐれ)に在ります賀毛神社に真似て建設しました。このようにして、神武派と天照派(丹生家)の人々が一同に会して行った祭りが「葵祭(あおいまつり)」で御座います。

 

 

上賀茂神社

本来は「天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)」と生命生産出(うみだ)しの絶対五神が、お祀りされるはずなのですが、権力者によって替えられて、今日のようになっています。当時は、貴船山を「天照皇大御神」と崇めていたと思われます。この神社はかつては高貴な人以外は参拝できなかった神社で御座います。

 

 

京都謡曲史跡保存会資料

上賀茂神社の御祭神・玉依姫(たまよりひめ)が今、上賀茂神社の境内を流れている御手洗川(瀬見の小川禊の泉)で川遊びしていると、川上から白羽の矢一本流れてきた。これを持ち帰って床に挿して置いたところ、遂に感じて男子を生む。のち男児天に向かって祭りをなし屋根を穿(うが)って天に昇る。別雷尊(わけいかづちのみこと)とたたえ祀る神社を賀茂神社という。

 

 

この資料についての神の御詞(ことば)

〇「玉依姫(たまよりひめ)」とは女性の美称で、人祖「初代」伊邪那身命のことで御座います。「白羽の矢一本」とは、人祖「初代」伊邪那岐尊の汚れを知らぬ生身のことで「貴い器」男根のことで御座います。

〇「別雷尊(わけいかづちのみこと)」とは、人祖のお二方の赤心の霊産(むすび)の別け御霊魂(みたま)としてお生まれになられた御子のことで御座います。

〇「御手洗川(みたらいがわ」)とは、貴船川から流れて来る川のことであります。

 

 

下鴨神社

史跡「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」と現在も石碑が遺されています。賀茂御祖神社とは、植物・動物・人間の元生産親(もとうみおや)さま「三大太元帥(さんだいだいげんすい)」のことで、この三津の生命が永遠に「繁茂」栄え続けてい行く祈念の意志(こころ)を顕された言霊が「賀茂」で御座います。この神社は、昔から一般の人々が参拝出来ました。

 

 

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生命継承権憲邪・天皇(すめらぎ)の御詞(ことば)

 

1.大丹生家(おにゅうけ)と丹生家(にゅうけ)の役目

類最初の「三八子(みやこ)」となった「意志呉(いしぐれ)」では、毎日のようにして人類の未来について語られていました。人祖「初代」伊邪那岐尊さまは、十九組の夫婦を結ばせて、嫡子の「別雷尊(わけいかづちのみこと)」と「玉依姫(たまよりひめ)」に「大丹生家・天皇家(すめらぎけ)」を名乗らせになり、世襲をもって継承することをお命じになりました。

そして、天津(てんかい)で神と約束をしました。「御難賛助の御誓約(ごなんさんじょのうけひ)」の更新であります「大嘗神祇祭(だいじょうしんぎさい)」をもって、天皇(すめらぎ)の御位(みくらい)をなし、生命継承権憲邪の直系の血脈系譜で、万世一系の天皇が人間の生命継承権憲邪を奉るべしとの御詞(ことば)で御座いました。

そして、嫡子の「別雷尊(わけいかづちみこと)」に「大丹生家天皇(おにゅうけすめらぎ)」として「三八子(みやこ)」をまとめて、「大和詞(やまとことば)」でもって、政(まつりごと)を司るようお伝えになりました。後の十八組の夫婦には「丹生家(にゅうけ)」<天皇家の分家>を名乗らせになり、大丹生家(おにゅうけ)・天皇家(すめらぎけ)を支え、天皇家に男子誕生無き時は丹生家十八家のうちより天皇を奉り、人類の発展を願われたので御座います。

また「大和詞」の完成に協力された孫たちも「丹生家」を名乗ることを許されました。この三代位までは神格をお持ちであったそうで御座います。太元帥明王像(だいげんすいみょうおうぞう)は、この丹生家十八家を十八面三十六臀(び)で現され、その頂天に大丹生家の天皇(すめらぎ)・皇后(すめろぎ)を据え置かれておられます。

 

 

 

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2.人類最初の信仰の山・吉野

続いて天津(てんかい)で行われている霊命誕生の神仕組みと、吉野山についてお話しになりました。

日輪太陽津(金剛界)から生み出された「丹(に)」(生命遺伝子の根)が、太陽の光の際限津(さいげんかい)・宇宙産迂迦(うちゅううが)の障壁賀(胎蔵界)に届けられ、そこで育まれている「生(しょう)」と結合し、「丹生丹生魂遺伝子(にしょうにゅうこんいでんし)」が誕生してゆく。この天上神霊津の霊命誕生の写しを、吉野の金峯山(きんぷせん)の「創根ケ峯(あおねがみね)」にかけての山々に示し置かれた時の事をお話しになりました。

峰伝いに段々と奥に入るに連れて緑が豊かで、見事な山の傾斜や、谷の深さの気持ち好さに心を打たれながら進み行くうちに、言い知れぬ胸のときめきの中に浮かび来るのが、丹生津の施津の出来事でありました。高鳴る胸の思いと数かな身の震えの中に観えてくるのが、ご自身の運命が「憑軀子(つくし)」される時の事でありました。

微かに揺れ動く大氣の中を、今にも「天の意和戸(いわど)」を駈け出さんしている「金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)」のお姿を感じ観ていた童児さまは、知らず知らずの内に、その山の頂上に三津の岩石を立てて並べてお出でになりました。その岩石を植物・動物・人間の元生産親(もとうみおや)の神霊理氣に準(なぞら)えて念じ込めになり、向かって左側の石を「植物の生命継承権憲邪」とされ、向かって右側に「動物の生命継承権憲邪」をお祀りなさいました。そして人間は、植物・動物のお世話にならなければ生きてはいられない身の上であるので、宜しくという意味を込めて中央に「人間の生命継承権憲邪」をお祀りなさいました。この時、童児さまは金剛蔵王界の御神理氣(日輪太陽の神理氣)に交信を願われた事から、この山を「黄金の峯(金峯山)」とされたので御座いました。そして、このようなお目出度い地であることから「吉野」と呼ばれ、この山の峯を「創根ケ峯」(生命遺伝子の根が創られる峯)とお呼びになりました。

 

 

 

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大峰修験道は男の倫理(みち)

天上神霊津の写しとしての金峯山の金剛界は、太陽より金玉(きんぎょく)を戴いた男の施津で、そこより丹生津の施津の写しであります山上ケ岳の胎蔵界(子宮)に、精子を運び届けて生命遺伝子を誕生させてゆく地上での神仕組みであるため金峯山から山上ケ岳にかけての修行は、男に限られるので御座います。故に女人禁制となっております。

 

 

〇法螺貝(ほらがい)

法螺貝の音は、生命の波動に一番近い丹波波動で、山上ケ岳の山頂から吹くと、丹生津(にゅうつ)の施津(せかい)まで伝わって行くそうで御座います。それで法螺貝を吹くように教えておかれたそうですが、その伝えも絶え、意味もわからず神事をやっている者たちばかりだそうです。

 

 

3.吉野の蔵王権現(ざおうごんげん)

日輪太陽津で生み出される生命遺伝子の根(丹)が、丹生津において「丹生丹生魂遺伝子(にしょうにゅうこんいでんし)」となって「天の意和戸」を押し開きになり、今にも飛び出んとされる御姿を権現されましたのが、金峯山寺(きんぷせんじ)「蔵王堂(ざおうどう)」にお祀りされています。「三大蔵王権現(さんだいざおうごんげん)」さまで御座います。現在は向かって左尊が、「弥勒菩薩(みろくぼさつ)」、中尊が「釈迦如来」、右尊が「千手観音菩薩」となっていますが、元は向かって左尊が「植物の生命継承権憲邪」、中尊が「人間の生命継承権憲邪」、右尊が動物の生命継承権憲邪」御座います。

人祖が金峯山の「創根ケ峯(あおねがみね)」に、人類で最初にお祀りされた、地球上に生氣(いき)る三位一体の生命を、霊命遺伝子として現された仏様のお姿で御座います。「蔵王権現」さまのあのお顔は、憤怒(ふんぬ)の表情のように見えますが、実際は、赤ちゃんが生まれ出て、「オギャー」と泣く時の相であり、最高の丹波波動を響かせて、生命(いのち)を戴いた至上の喜びのお顔だそうで御座います。

 

 

 

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4.吉野十八郷(ごう)

こうしたことから、この吉野山は人類にとって最初の信仰の山となりました。そこで「「初代」伊邪那岐尊さまは、この霊山を丹生家十八家にお祀りさせるため、畿内に十八家を赴任させになり、天皇を補佐すると共に、吉野山の神霊理氣を丹生家十八家が二十年毎の交替で、祀り続けるようお命じになりました。そのため吉野に十八郷が造られたのでした。

〇この「創根ケ峯(あおねがみね)」の山頂には「三十八社」が祀られたという伝えが遺されています。

〇春日大社に「三十八社」が遺されています。

〇葛城地方の高天彦神社に「三十八社」がお祀りされています。

〇石山寺には「三十八社」がお祀りされています。

〇泰澄(たいちょう)大師の誕生の地が福井県の「三十八社町」で御座います。

〇舞鶴市瀬崎では、三十六の膳をお供えする秋祭りがあります。(このお祭りの意味は、大丹生家の当主が、人祖の御降誕の地に丹生家十八家を招待され、人祖がこの海の彼方の冠島(かんむりじま)の沖で人間として御降誕された事をお伝えになったことから、毎年、秋祭りの一週間前に三十六のお膳を用意して、神さまをお迎えする行事が行われています。村の方々はその意味を解らず行っていますが、この三十六名の人神は丹生家十八家のご夫妻で御座います)

 

 

 

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この畿内の中心が「明日香村」で御座いました。「あすなろ」という木があり、檜(ひのき)につぐ良質の材であることから、明日は檜になろうという意味で、明日香も今日よりも明日、明日よりも明後日と良くしてゆく、こうした人祖の御意志(みこころ)が「明日香村」には込められていました。

 

 

 

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5.丑寅(うしとら)・未申(ひつじさる)の金神(こんじん)

伊邪那岐尊と伊邪那身命さまは、そろそろ山入りの時が来たことを悟られ、その準備にお入りになりました。伊邪那身命さまは若き日に、現在の米原の醒ヶ井(さめがい)あたりから登られた武奈山’(ぶなやま)と比婆山(ひばさん)が、お二人の墓所ではないかと想ってお出でになりました。そしてこの山入りのお山のことを「鳥居本(とりいもと)」と名付け置かれました。(十二時間後)に、比婆山の山頂において丑寅(うしとら)の方位に座し「未申(ひつじさる)の金神(こんじん)」として、明けの明星と共に御遷還あそばされたので御座いました。この「鳥居本(とりいもと)」は彦根(ちゅうしん)という意味を持ち、お二方の陵(みささぎ)の在る場所として伝え遺されて来ました。

 

 

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大和統一国家の誕生

 

アマテルカミ尊(天照天皇 あまてるてんのう)

1.親が遺した水稲栽培

 

「アマテルカミ尊」の父母(1500代目の伊邪那岐尊・伊邪那身命)は、水稲栽培を普及して各地をお歩きになりました。ある日のこと、鶴がいつも飛んで来る所があるので、何をしに来ているのかと思われて行って御覧になると、たわわに実った稲が生えていたので御座います。このように水の中で育てれば、沢山のお米が作れるという事にお気付きになり、水稲栽培をしてみられますと、今までの陸稲よりも三倍も四倍も収穫ができたので、この事を皆に伝え各地へ広げていかれました。その行く先々でお子を儲けられ育てていかれたので御座いました。そして紀州へお出でになりました時、陣痛を催されたため、岩陰に行かれお産なさいましたが、難産となり、ついに母子共にお亡くなりになりました。父・伊邪那岐尊は大そうお悲しみになり「何故こんな事に成ってしまったのか。私が何をしたというのか。」と神に不信を抱かれ、氣が狂(ふ)れておしまいに成りました。妻が恋しくて恋しくて、まだ生きていると思い込まれ、妻の亡骸の入ったお棺の蓋を開けて見ると、もう蛆が(うじ)が湧いて見る影もなく、そんな妻の姿を見てしま一気に発狂してしまわれました。そして、「亡者が我を追い掛けて来る。」と言って、桃の木に登って桃を投げつけたそうで御座います。

「アマテルカミ尊」は、母君を紀州で亡くされ、氣の狂れた父君と残された子供たちを育てながら、人々を救うために御両親の後をお継ぎになり、日本各地を廻っていかれました。ご自身の家族だけでも、大変な状況でいらっしゃいましたが、それでもやはり大和の人々の事が気に掛かり、大きな袋を担(かつ)がれ稲の作り方や家の造り方など、人々の役に立つ事を伝えて歩かれました。

大黒様が担いでいお出での大きな袋の中には籾(もみ)が入っており、右手にお持ちの打ち出の小槌は、この生命界の三つの命が響き合い新に生まれる「恵」を打ち出す「知瑠恵(しるめぐみ)」を表し、稲の作り方を教えられた叡知を表しているそうで御座います。天照天皇は、今日も大黒様として崇め祀られているので御座います。

 

 

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2.元伊勢に與謝宮(よさのみや)を造営

伊邪那岐家世襲最後の伊邪那岐尊の嫡子であります「アマテルカミ尊」は、日輪太陽を敬い崇め大自然に従い生きる臣族(おみぞく)の長として父母の御意志(みこころ)に従い山育り田造りに励み、国造りに勤(いそ)しまれていました。

現在の中部地方を中心に西の国を治め、現在の三重県志摩郡磯部町にあります伊雑宮(いざわのみや)の所にお住まいになっていました。この頃は世界的に、人類が鉄や銅の鉱石を見つけて生活を潤わせてゆく半面、武器の製造を始めた為、生命を蔑(ないがし)ろにして争いを招いていました。また、樹を切っても植えることもなく、破壊を垂れ流す時代となっていました。こうしたことを危惧された神が、ついに「アマテルカミ尊」の夢枕に立たれたので御座いました。現在の京都府宮津市天之橋立にあります元伊勢の真名井原丹庭(まないはらたにわ)にある鶺鴒石(せきれいいし)の上に「皇親(すめらかむつ)」神漏身命(かむろみのみこと)と人祖「初代」伊邪那身命のお二方がお出ましになり、人祖が代表されて、唯一神明の大御詔(おおみことのり)をお伝えになりました。

「天津彦根(てんかいちゅうしん)」におわします日輪太陽「息津(おきつ)」の神理氣と宇宙産迂迦(うちゅううが)の「湍津(たぎつ)」の神理氣と、現象生命界地球「邊津(へつ)」の神理氣とが、渾然一体の力組みをされ顕現になられた、九氣九神伊勢生成(いせいいなり)の神の御威光・御神氣の御尊称「天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)」をお祀り申し上げよ」とお伝えになり、唯一度だけ神の宗像(もとすがた)を明らかにされました。

夢からお覚めになられた「アマテルカミ尊」は直ぐなる心、満ち足る豊受の魂の中に、鶺鴒石(せきれいいし)のある真名井原丹庭(まないはらたにわ)に與謝宮(よさのみや)を御造営になり、「天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)」をお祀りされ、この地球に生きる全ての生氣物の元生産親(もとうみおや)さまを「皇親(すめらかむつ)」神漏岐尊(かむろぎのみこと)・神漏身命(かむろみのみこと)とお呼びになり、私たち人間の元生産親(もとうみおや)さまの「初代」伊邪那岐尊・伊邪那身命を「八和幡之大神(やわたのおおかみ)」に合祀をお願いされ、十種神鳳(とくさのしんぽう)「伊勢生成(いせいいいなり)の神」としてお祀りされたので御座いました。

そして神羅万象の弥栄(いやさか)と安寧(あんねい)を祈り、この現象生命界に生産(うま)れ来た事を喜び、大自然が食物連鎖の生命の仕組みである事を忘れず、「知瑠恵(しるめぐみ)」の尊さに従い、誤ることのない倫理(みち)を歩むことを誓われたので御座いました。

 

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3.金産山(かなぶやま)を巡る大八洲の危機

この大八洲も、鉄や銅を生産する美濃国の赤坂にあります。「金産山(かなぶやま)」を巡って、国を二分しての大戦争になろうとする、一触即発の危険な状態でありました。「アマテルカミ尊」は、国造りになくてはならない鉄や銅を「金産山」に求めておいでになりました。一方、弟の「速素佐之男尊(はやすさのおのみこと)」は、尾張国は洲崎の入江の奥を舟津の宮とお呼びになり、同じく「金産山」に国造りに必要な鉱石を求めておいでになりました。

こうした中「アマテルカミ尊」は、直ちに鈴鹿の山本椿の庄にお住まいの「猿田彦尊(さるたひこのみこと)」の許(もと)に使者を遣わしになりました。この度「金産山」での争いを放置すれば、神が人間だけにお授け下さった「知瑠恵(しるめぐみ)」に背き、悠久不変の生命を破壊してしまったのでは万世までの太平の基が築けなくなるため、どうしても「速素佐之男尊」に直接会わなければならず、絶対に失敗は赦されないため、この大役を務めるだけの才覚をお持ちの「猿田彦尊」を措(お)いて外に仁(ひと)はなく、その仲介をお願いされたので御座いました。

 

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4.仲立ちをされた「猿田彦尊(さるたひこのみこと)」

「速素佐之男尊」は尾張族の祖人でありました。その尾張族の舟津の港は現在の洲崎神社の前にあり、この港と多度の尾津前(おずざき)の港を結ぶ海路を、八里の渡しと言い伝えられていました。「猿田彦尊」は、こ八里の渡しを何度もお渡りになり、「アマテルカミ尊」と「速素佐之男尊」の仲立ちをされたので御座いました。

そしてついに、お二方を北伊勢国は桑名郡多度邑(むら)の小山の頂にて、御会見の運びが整えられたので御座いました。「アマテルカミ尊」は大変お喜びになられて、神筋山(かみじやま)の頂にお祀りされている「日輪太陽神」に会見の成功をお祈りになりました。そして、意素住川(いすずがわ)の辺の「神祇(しんぎ)の地」にお祀りされている「天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)」の御前に坐して、伊勢の神の御神聖「民草和氣の御神氣(くさなぎのごしんき)」を胆魂に受け留めになり、宇治橋の少し下流から船に乗られて意素住川(いすずがわ)をお下りになりました。そして伊勢の海に出られ北上されて、鈴鹿川を下り途中から伊丹川(御幣川)を進まれて「猿田彦尊」の館に到着なさいました。現在、猿田彦尊をお祀りする「椿大社」の二ノ鳥居の側にある御船巌鞍(みふねいわくら)は、「アマテルカミ尊」が船から降り立たれた旧跡で御座います。「猿田彦尊」の館でお休みになられたアマテルカミ尊は、会見のために早く立たれて、多度の小山の頂きを目指し急がれたので御座いました。

 

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5.魂活水(たまかっすい)

その道々に思う事は、失敗は赦されないという思考(おもい)ばかりで、そのためつい喉が渇き、その道端に湧き出る清水を飲んで一休みなさいました。人間の心は弱いもので、どれ程強く心に誓っても楽身生身には勝てず溺れてしまい、その挙句が良心すらも偽ってしまう哀れな者で、ついにはこの食物連鎖の大自然までも破壊してしまう。このような心であってはならず、この生命界を御創造(つくり)になった神の御神聖「民草和氣(くさなぎ)の倫理(みち)」のためにならば、己の生命までも奉げ尽くし切る事が出来る程の、大きく和してゆく「大和霊魂(やまとだましい)」でなくてはならないと、心に誓われるので御座いました。それ以後、この菰野(こもの)の清水を「魂活水(たまかっすい)」とお呼びになりました。そして尾津崎(おずざき)の渡し場前から多度の小山の頂を伏し拝まれて、誓いも新たに船に乗り急がれたので御座いました。

 

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6.兄弟の愛

多度の天王平(てんのうびら)において、兄「アマテルカミ尊」と弟「速素佐之男尊」は互いに手を取り合い、過ぎし日々を思い浮かべるのでありました。

母の死と父の気が狂れた姿、またその母の姿も愛も知らずに荒れ育った弟、過ぎし日の様事の中に、他人の言葉が子供心に耐え切れず、今にして想えば呪わしき喧嘩の沙汰も狂わしく、憂き身に沈み帰る家では、諫めるばかりの兄の言葉には従えず、背いて返す口答えを暴れて隠す悔し泣き。家を飛び出して行く弟の姿に、呼びとめようとする兄の声も通ぜぬままに過ぎ去った三十七年でありました。

 

 

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7.伊勢の神の理(ことわり)

今ここに生きて会う事が出来た喜びに感泣し、手と手を取り合うお二方の真心にいつしか神が憑かれて、知瑠恵(しるめぐみ)の施津(せかい)を理解していかれたので御座いました。動植物一体の元理、共存共栄の天の理(ことわり)に目覚め、人間が知瑠(しる)ことは永遠に恵として照り輝くこと以外は、知ってもこの世に出してはならないのですが、この「知瑠恵(しるめぐみ)」の一番大切な天の恵であります「瑠(る)」を抜き捨てた知恵を凝らして、武器を造り戦争をして人が人を殺し合う人間の浅ましさが、やがてこの生命界を破壊し尽くしてしまう日が来ることでありましょう。この動植物一体の大自然が食べ物連鎖の仕組みであり、悠久不変の弥栄(いやさか)への調和が「知瑠恵(しるめぐみ)」の連鎖であり、神が永遠の弥栄の倫理(みち)を人間に託し約束されたので御座いました。

私たち人間がこれに徹し切る時、この生命界地球にどれだけの生成(いなり)の身が満ち溢れようとも、困る事のないだけの恵と宝を集められいるのがこの地球であります。この事を確と胸におき、大自然の中の一個人であることを深く理解してお互い助け合う時、神の倫理(みち)に適う政(まつりごと)を奉ることが出来ます。そのためには、権力を作らず、武力の行使を認めず、人権民権を大きく和して天が下を一軒の家と為す八紘一宇(はっこういちう)の御神聖を貫き通す事が大切であります。

 

 

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8.御難賛助の御誓約(ごなんさんじょのうけひ)

こうして「アマテルカミ尊」と「速素佐之男尊」は、多度の小山の頂に日輪太陽の御神霊をお祀りになり三種ノ神器(勾玉・鏡・剣)をもって、神の御前に謹み出られて確と手を取り合われ、絶対の不戦を誓い、無血の統一国家の建設を誓い合う「御難賛助の御誓約」をされたので御座います。

 

 

9.瑞穂(みずほ)の経国誕生

ここに目出度く、麗しき戦(いくさ)せぬ瑞穂の経国の元を誕生させになり、統一国家の基(もとい)に山育(つく)り田造りを建国の中心にお据えになり、大和民族の絆を破壊の危機からお救いになりました。どこまでも「愛と自由と知瑠恵(しるめぐみ)」に生き、特権を赦さず国権の発動たる戦争をせず、「人権民権を大きく和して、天が下を一軒の家と為す」を国是(こくぜ)とされ、万世までの太平を明らかにせんものとされたので御座いました。このお二方の御意志(みこころ)と共に、猿田彦尊の意志(こころ)組みを今に伝え遺している「天王平(てんのうびら)」の旧跡地は、伊勢の海が一望のもとに収めこみ、燃え上ってくる日輪太陽の尊姿、息津(おきつ)の息吹が滾り(たぎ)り来る生命の感慨に、臣族の血脈が蘇り湧き上がりくるような地で御座います。(現在の多度大社は、持統天皇が天王平よりお移しになられた社で御座います。)

 

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10.伊勢の神を拝受

天王平(てんのうびら)での御会見の時に、相互視察訪問の約束をしてお出でになりました。そこで先ず「速素佐之男尊」が、志摩の伊雑が浦に「アマテルカミ尊」の館を御訪問になりました。当時兄上の蹈鞴精練所(たたらせいれんじょ)は安乗(あのり)にあり、視察をされて御指導にもなりました。そして神筋山(かみじやま)の頂にお祀りされている「日輪太陽神」と、内宮の「天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)」に御参拝になり、尾張族として「伊勢の神」を謹んでお受けしお帰りになりました。そして直ちに、尾張族の蹈鞴精練所のある北杭瀬(きたくいせ)の笠縫邑(かさぬいむら)の川上・根尾川の辺の聖地・「居倉(いくら)の里」に「伊勢の神」をお祀りになりました。

 

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11.天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)

その後お体を根尾川の清流で清められ、三七の神業をされて、その真西に聳える「金産山(かなぶやま)」の鉱石を笠縫邑(かさぬいむら)の精錬所にお運びになり、その鉱石から抽出された金で、伊勢の神の御神聖(ごしんせい)「民草和氣の御神氣(くさなぎのごしんき)」を打ち込まれ鍛え上げになられた「剣」は、「御難賛助の御誓約(ごなんさんじょのうけひ)の証の剣」で御座います。

相互視察訪問の約束に基づき、「アマテルカミ尊」が尾張族の地におい出になられた時に、この「剣」を献上されました。すると兄上はとてもお喜びになり、そこの精錬所から黙々と天に昇り行く叢雲(むらくも)の如き出雲(いずも)に因(ちな)み「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と命名になりました。兄上はお帰りになるやいなや、その剣を伊勢の神の御神聖「民草和氣の御神氣(くさなぎのごしんき)を顕在する剣」として、伊勢神宮に御奉祭になりました。これが現在天皇家が継承する「民草和氣の剣(くさなぎのつるぎ)」であると神がお伝え下さいました。

 

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12.民草和氣(くさなぎ)の倫理(みち)

伊勢神宮を発して、椿の庄から魂活水(玉葛水)を経て、尾津前(おずさき)からの多度の天王平を通じ、美濃国の赤坂の金産山(かなぶやま)から居倉の伊久良河宮(いくらがわのみや)を経て北杭瀬(きたくいせ)の笠縫(かさぬい)を結び、尾張洲崎の舟津(ふなづ)の宮につなぎ伊勢の内宮・伊雑宮(いぞうのみや)に結ぶ線を「民草和氣(くさなぎ)の倫理(みち)」とお呼びになりました。

 

 

13.「與謝身(よさのみ)」天照(あまてる)天皇

人権民権を大きき和して、天か下を一軒の家と為す政(まつりごと)に徹していかれた「アマテルカミ尊」は、日出ずる丹ノ本(にのもと)の国の初代「與謝身(よさのみ)」天皇に瑞祥(ずいしょう)されたので御座いました。「天照天皇」(豊受大神)は、弟「速素佐之男尊」と天王平での会見を重視され「猿田彦尊」や、無血をもって統一国家建設に協力された豪族の長(国常立尊 くにとこたちのみこと)を大切にされたので御座いました。人祖の菊の御紋に習い「天照天皇」を中心とし「速素佐之男尊」が十八名の国常立尊の長上(おさがみ)となり、大和の国造りのために、共に切磋琢磨協議されていかれました。

 

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14.神祇(しんぎ)の地

天津神理氣(あまつしんりき)<太陽の通る神筋>と国津神理氣(くにつしんりき)<北極から加賀の白山安久寿(あくど)の森を通り、志摩の神筋山を結び南極に至る神筋>とが、地球上で唯一一点交差する現在の伊勢市を「神祇(しんぎ)の地」と定め、ここに十柱の伊勢生成(いせいいなり)の神「天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)」を「伊勢の神」として神明造りでもって現され、身生(みあ)れの神殿を御造営になりました。このようにして斎王家となられた尊」は祭祀に国造りにとお励みになりました。

そして日本列島の北には「宇宙産迂迦神(うちゅううがしん)」<丹生津の神>を加賀の「白山比 咩宮」にお祀りし、南には「日輪太陽津神」を志摩の神筋山の麓の「伊勢神宮」に、西には「産土之地球神(うぶすなのちきゅうしん)」を阿蘇「幣縦神宮」に、そして東には「月暦見満引神」を山形の「月山神社」にお祀りして、天記津州(あきつしま)の東西南北に、生命を生産(うみ)だしに力組みをされる神をお祀りになりました。

 

 

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15.伊勢生成(いせいいなり)の基督(きとく)の神理氣(しんりき)を大陸へ

更に「天照(あまてる)天皇」は、この「邊津(へつ)」地球に生氣(いき)る全ての生氣物(いきもの)の志合(しあわ)せ、安寧のために、日本の国の発祥の元理であります「息津(おきつ)」・「湍津(たぎつ)」・「邊津(へつ)」の三津の基督神理氣(きとくしんりき)を、大陸へ広く伝えんものと志されたので御座いました。そこで、九州の宗像(むなかた)の神霊地に奉行を置き「天照天皇」の御次男を「道主貴(みちぬしむち)」として遣わされました。その時に、一歳くらいになられていた御次男の御子(瓊々杵尊 ににぎのみこと)」をぬさに入れられて御一緒に宗像(むなかた)の地に赴かれ、高千穂の峰にも登られました。そしてこの地に、伊勢生成(いせいいなり)の神「天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)」をお祀りされました。

 

天孫降臨(てんそんこうりん)

「古事記」に、高千穂の峰に「瓊々杵尊 ににぎのみこと」が『』 『』されて、そこが国の初めとなっていますが「瓊々杵尊 ににぎのみこと」は、『天』照天皇の『』に当たるお方で御座います。

 

そして現在の福岡県宗像群玄海町より西方、遥かな海上に浮かぶ沖ノ島の「沖津宮」に息津(おきつ)比 咩神を、中ほどに浮かぶ大島の「中津宮」に湍津比 咩神(たぎつひめがみ)を、そして「宗像の聖地」に邊津比 咩神(へつひめがみ)をお祀りして、三津の基督神理氣(きとくしんりき)の宗像(もとすがた)を現しました。この御神霊が全て生産(うみ)の御神理氣であることから、宗像大社の御神霊を三女神とお呼び申し上げているので御座います。

 

 

宗像(むなかた)大社の三宮の三女神の祭祀

生命を生産(うむ)三津の基督神理氣(きとくしんりき)

◉沖津宮(沖ノ島)   息津(おきつ)比 咩神  日輪太陽(生命原子丹誕生の施津(せかい)

◉中津宮(大島)  湍津比 咩神(たぎつひめがみ) 宇宙迂迦(丹生丹生魂遺伝子・霊命誕生の施津)

◉宗像大社(宗像の聖地) 邊津比 咩神(へつひめがみ) 産土之地球(生命遺伝子誕生の施津)

 

そして「道主貫(みちぬしむち)」に「天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)」の迦護目の御神紋と、人祖が遺された大丹生家(おにゅうけ)、丹生家(にゅうけ)の元のお姿の菊の御紋をお授けになり、この三津の基督神理氣(きとくしんりき)を大陸を西へ西へとお伝えになりました。

 

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16.仏教

そして約六百数十年後に大陸の中ほどで、釈迦族の「釈尊」によって「湍津(たぎつ)」の神理氣を中心として、見る事の出来ない霊津(れいかい)の輪廻転生の施津(せかい)をもって現し伝え、御神理氣を仏像の姿で現していかれました。

 

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17.基督(キリスト)教

更に約五百数十年後、ユダヤ(イスラエル)の地に、モーゼによって「邊津(へつ)」産土之地球の神理氣を中心として、現象生命界「育てて召し逝く」この世の定まり事を「愛と自由と知瑠恵(しるめぐみ)の恵(愛)をもって花咲き開かれたのを、イエスの死により復活し甦ったのが基督教で御座います。各の如くして、大八洲を初めとして全邊津(全地球)に、三津の基督の神理氣は知れ渡り、世界の宗教の基になっていきました。

 

 

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18.天照天皇を天津(てんかい)に封じ込める

「神倭伊波礼毘古尊(かむやまといわれひこのみこと)」は大和国の中央に乗り出されて、この大八洲の太古の歴史の素晴らしさに初めて気づかれたので御座いました。與謝身(よさのみ)「天照天皇」の、余りの偉大さに圧倒されてしまわれたその結果が、一片の「天ノ岩戸の物語」に隠し包み込み、実在の人物の「天照天皇」を神霊として天津(てんかい)に封じ込めて、神武天皇以前の天皇家の系譜を消してしまいました。

 

 

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19.オノコロ島

「古事記」に記されている伊邪那岐尊・伊邪那身命は、天照天皇(兄)と速素佐之男尊(弟)のご両親で御座います。神武天皇を初代とした以上、熊野の「大斎原(おおゆのはら)の皇祖の御陵」があっては困る為、大斎原から伊邪那岐家の御霊魂を追放する為、亡者に追われた伊邪那岐尊が、琵琶湖まで逃げたがまだ追いかけられ、淡路島までやって来て、そこを安住の地とされたという事にして、皇祖を熊野から淡路島に移し、そこを日本の国生みの場所としました。男(お)の子の島、オノコロ島となったので御座います。

神武天皇から四十代目の天武天皇が、神武王朝権力を完成させ、この時代に「古事記」や「国史」の編纂が行われ、人祖が御降臨になられた與謝界「天記津州(あきつしま)」の元伊勢を消して、筑紫(つくし)の日向(ひゅうが)の高千穂の峰を国のはじまりとしてゆきました。

「初代」伊邪那岐尊さまが、付け加えて仰せになりました事は「現在遺されている古事記の中で、伊邪那岐尊は、迦具土(かぐつち)が大事な妻の命を奪ったので、その首を刎(は)ねたと書かれているのは好くありません。首を刎ねたのではなく、赤ちゃんが袋を被ったままなので、母がなんとか破ってあげようともがいたが、出血多量のために亡くなってしまいました。そこへ来た父(伊邪那岐尊)が、こと切れた母の傍らに居る子が袋の中に入って居るので、この子だけでも助けようと袋から出して揺すってみたが、生氣を吹き返す事はなかった。」このようにお知らせ下さいました。

 

 

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20.古事記の語り

〇伊邪那岐尊は、アマテラスに高天原を治めよと命令しました。

〇スサノオだけが、国を治めることもせずに、大人になっても泣いてばかりいた・・・伊邪那岐尊は、なぜそんなにな泣くのかと訊ねると「亡くなった母の国へ行きたい。」と答える。伊邪那岐尊は怒ってスサノオを追放しました。

〇スサノオは、姉のアマテラスにいとまごいをする為、高天原へ登っていった・・・驚いたアマテラスは、スサノオが高天原を奪うためにやって来たと思って、男の姿に身を固め出迎えた。スサノオに邪心がないか確かめる為、天之安河を間にはさんで「宇気比(うけひ)」をすることとなった。まずアマテラスがスサノオの十拳剣をもらい受けると、三段に打ち払って、天の真名井の清らかな水ですすぎ、噛みに噛んでフッと吹き出すと、その息が霧となって、三柱の美しい女神が現れた。次にスサノオがアマテラスの玉飾りをもらい受けると、やはり天の真名井の清らかな水で洗い噛み砕いてフッ・・・吹き出した。その息吹が霧となって五柱の男が現れた。

「御男三女の宇気比(うけひ)」

古事記には、このように事実を曲げて書かれています。

 

 

 

21.天照(あまてる)天皇の胞衣(えな)

「天照天皇」は血洗(ちあらい)神社(血統神社・岐阜県中津川市)にあります恵那の地でお生まれになり、その「胞衣(えな)」は、天皇が御造営になりました「伊勢神宮」に納めてありました。しかし垂仁天皇二十六年から外宮の造営が中断されると同時に、伊勢の内宮も放置されてしまった為、「倭姫命(やまとひめのみこと)」(垂仁天皇の皇女)は「速素佐之男尊」が献上された「民草和氣の剣(くさなぎのつるぎ)」と「天照天皇の胞衣」を、内宮より一時「斎宮」に預かってお出でになりました。

「倭姫命」は「日本長尊(やまとたけるのみこと)」を明和町の斎宮にお招きになり、「伊勢の神」をお祀りしている「日神山」に「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」を納めると同時に、「天照天皇の胞衣」を天皇の誕生の地に納めるようお渡しになりました。

現在は、血洗神社となってしまっていますが、元々は、日本の天皇家は正しき血統でなくてはならないという事を伝えた神社でした。争わず、権力を作らず、大和魂で神聖な政(まつりごと)を行うのが、天皇のあるべき姿で御座います。

この神社の左側に恵那山が在り、この山には「八幡神社」がお祀りされていました。しかしながら、「日本長尊(やまとたけるのみこと)」以後の神武権力派の人が、「日本長尊」が山へ登り「天照天皇の胞衣」をこの山に納めたと言って、そこを「恵那神社」にして神武派の神祀りをしてしまいました。そしてここを下って行くと六津の村があり、ここに流れる川は、血洗神社(血統神社)側と恵那神社側のこの二津を分けて、その間の谷間を流れる川として、「中津川」と定め置かれたそうで御座います。

「日本長尊」はこの恵那の地に、天皇家の由緒正しき血統のために「血統神社」をお建てになり、胞衣を納めお祀りされたので御座いました。

 

 

 

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伊勢の地

1.神祇(しんぎ)の地

国津神(神筋の経)とは加賀の白山、安久寿(あくど)の森を通り、志摩の神筋山を結ぶ筋のことです。

天津神(太陽の経)とは毎年の太陽の通る筋のことです。

国津神(月、地球)と天津神(太陽)とがこの生命界地球にただ一点に交差する地点を「神祇の地」と定め置かれ、現在の三重県伊勢市の「神聖地」で、宇宙産神理氣の「十種神鳳(とくさしんぽう)」(伊勢生成の神)がお祀りされているのです。

 

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2.内宮

神筋山の麓に流れる五十鈴川の辺りの神霊地に、與謝宮(よさのみや)を御造営に成り、「御尊称」天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)、「息津(おきつ)」日輪太陽津神、「湍津(たぎつ)宇宙産迂迦神、「邊津(へつ)」産土之地球神の四神を国神としてお祀りになりました(神理氣)。

 

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3.月読宮

内宮から北の方位になり、「東生(とうう)」天生零迦児神(あうむかごのかみ)、「卯根(うこん)」月暦見満引神(つきよみみちびきのかみ)、「皇親(すめらかむつ)神漏樹六根神(かむろぎろくねのかみ)、「皇親(すめらかむつ)」神漏身六根神(かむろみろっこんのかみ)」の四神を国神としてお祀りになられました(神理氣)。

 

 

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4.月夜見宮

内宮から北西の方位に「初代」伊邪那岐人神(いざなぎのひとがみ)、「初代」伊邪那身人神(いざなみのひとがみ)の二神を国神としてお祀りになられました。この地は、大丹生童児と童女が御降誕された大丹生(おにゅう)の地から陸を旅して若狭まで来た時に、二人はそれぞれの修行の為に別れて旅をされました。そして、成人された伊邪那岐尊と伊邪那身命が再会された場所で御座います。(人間初代男女)

 

 

 

5.外宮

神祇(しんぎ)の地に、生命生産(うみ)出しの伊勢生成(いせいいなり)の神(内宮・月読宮・月夜見宮)をお祀りになり、その神の御威光、日ノ本の御神聖に従い戦争せずに由基(ゆき)・主基(すき)の統一国家、日出ずる日ノ本の国の成り立ちに貢献された、初代内閣十九名の国常立(くにとこたち)の御霊魂(みたま)を、お祀りする社を御造営されました。(豊受之大神)

 

 

 

6.伊雑宮

アマテルカミ尊「初代」與謝身天照天(よさのみあまてるてんのう)ご自身がお住まいになり、伊勢生成(いせいいなり)の神事と山育り植林と、田作り稲作りに勤しみ国造りにお励みにられた地で御座います。

 

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7.松下社

多度のお山の天王平(てんのうびら)にて、兄 アマテルカミ尊と弟 速素佐之男尊は、由基国(ゆきこく)・主基国(すきこく)の統一国家建設のため「御難賛助の御誓約(ごんなさんじょのうけひ)」をされた後、相互訪問されました。尾張族の速素佐之男尊が磯部にお住まいのアマテルカミ尊をご訪問される時、此の辺りで日が暮れてしまい、富豪の巨且(きょたん)<兄>の館に一夜の宿を頼みましたが、身なりを見て断られ、貧しき宿に頼むのは心苦しく途方に暮れていた所、対岸の貧民の蘇民(そみん)<弟>は快く宿を提供され、粟座(あわざ)を造られたり、粟飯を振舞い、親切に心温まる接待をされたのでした。

その後に速素佐之男尊が訪問され、「汝の子孫は何人ぞ」と問われ、「妻と子の三人わび生活です。」と告げれば、尊は蘇民に汝の茅の輪三巻を作り腰に下げ、また家門には「蘇民将来(そみんしょうらい)子孫」とお礼に書き吊り下げるように伝えられた。その夜、巨且(きょたん)<兄>の住む部落は大洪水に遭い、巨且の一家は家もろとも流され、蘇民(そみん)<弟>一家は不思議と難を免れました。尊は「汝の子孫には今後必ず指示通り実行すれば恐ろしき疫病が流行っても、決してかからせまい」と誓われたという由来が蘇民松下社にあり、巨且(きょたん)将来と蘇民(そみん)将来の言葉が残されています。

 

 

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8.猿田彦神社

総監督「天照皇御神(あまてらすすめらおおみかみ)」と「絶対五神」の宇宙産神理氣によって、生命界へ全ての生氣物が生産(うみ)出され、食べて食べられ生まれて生む輪廻転生の世界には、絶対に争いがあってはならず、この「御難賛助の御誓約(ごなんさんじょのうけひ)」の契約をされた主基国(すきこく)アマテルカミ尊と、由基国(ゆきこく)の速素佐之男をお導きになり、統一国家の為に仲立ちをされた猿田彦尊をお祀りになられました。猿田彦尊は「光生神父(こういしんぷ)」の化身であり導きの神で御座います。

 

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9.輿玉神社

真名井原丹庭(まないはらたにわ)<元伊勢>にお祀りされた「伊勢生成(いせいいなり)の神」の御神体を奉祭する神輿を船でお運びされて、内宮にお移りいただく前に、暫く(こし)を置かれた立石が有りました場所です。

 

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10.斎宮跡

十代祟神天皇の皇女「豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)」が、丹波丹後地方の各地に遺る国常立尊(くにとこたちのみこと)の館跡、史跡の跡の地(現在彼方此方に元伊勢として残されている神社)を御巡幸になり、その御霊魂を霊妙霊身にお乗せになり、倭国(やまとのくに)の笠(かさぬい)まで共されましたがご高齢になられ、十一代垂仁天皇の皇女「倭姫命」が引き継がれました。そして、御御魂をお集めになり、宮川を渡ろうとした時、外宮の造営が中断され放置された事を知らされ、神祇の地へ渡る事が出来ず、この地を賢所(かしこどころ)として、「国常立の御霊魂」を御尊称「豊受の大神」とし、「伊勢生成(いせいいなり)の神」の御尊称「天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)」と共にお祀りされた場所で御座います。伊勢神宮が六百六十年放置され、この地にて「倭姫命」が伊勢の神を奉祭されて居られました。

 

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11.磯宮

「倭姫命」が十九名の「国常立尊(くにとこたちのみこと)の御霊魂(みたま)」を霊妙霊身にお乗せになり、此の場所まで来た時、外宮の御造営が先送りになった事を知らされて、「倭姫命」は大変悲しまれ自害をお考えになる程に思われた場所で御座います。

 

 

12.神明造り

◉葛緒木(かつおぎ)<六本>・・・狂いのない六の仕組み

・六神(絶対五神と総監督「天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)」

・六津(雄蕊と雌蕊、雄と雌、男と女が対等平等に輪廻転生する施津)

・六根(眼、耳、鼻、舌、身、意の同時意発の生命帯魂)

・六大陸(ユーラシア大陸、北アメリカ大陸、南アメリカ大陸、オーストラリア大陸、アフリカ大陸、南極大陸)

・六大海(北極海、北大西洋、南大西洋、インド洋、北太平洋、南太平洋)

 

◉千木(ちぎ)・・・天津神(天波)と国津神(念波)を以っての「知瑠恵(しるめぐみ)」の伊勢(いせい)の産霊(むすび)の姿を表す。

◉太柱(ふとばしら)<男根>・・・伊勢(いせい)の産霊(むすび)の姿。

◉子宮・・・男性の氣移しを子宮の中で十月十日をかけて育てる。

◉参道・・・男性を受け入れる道であり、子生産(うみ)の道。

◉世代嗣子柱(よよししばしら)・・・母なる意和戸(いわど)を中心に左右に四本ずつ榊をお供えして代々世継ぎを子々孫々に至るまでつなぎとめていく事を示す。

 

 

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速素佐之男尊

「速素佐之男尊」はご幼少の頃に母上を亡くされ、母の愛を知らずにお育ちになられた為、その寂しさが荒れて、荒ぶる尊(かみ)と言われましたのも、こうした事からで御座いましょうか。尊は、現在の名古屋市中区栄に在ります「洲崎神社」の所にお住まいでした。その当時は、この辺り「葦原中国(あしわらなかくに)<出雲の国>」と言われて、美濃、尾張、三河の三ヶ国を中心に、東(由基)の国を治めてお出でになりました。そして尊の「舟津の館」は、洲崎の入江の奥にありました。(現在の御国座の西の一番高い所に在ったと伝えられている)ここの「小山」という所に、立派な杉林があったので、この大木を切って舟を作り商いをしていたそうで御座います。この辺りには鍛冶屋があって、金産山(かなぶやま)から掘り出された鉄で、いろいろな耕具なども作られていました。尊はこの鉄の加工技術を持ち、尾張族の祖人として兄「天照天皇」を支えられた大和民族最大の功労者で御座います。それ以来、丹生家の人々が鉄の鋳造技術を身に付けていかれ「美濃の国を制する者が天下を制す。」と言われ、日本の歴史上、この地は非常に重要視されました。また尊は「尾頭(おず)天皇」とお呼びし、全国的に尾頭天皇祭が行われていました。

 

 

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神武東征以後の歴史

神武天皇

1.天孫降臨

神の宗像(もとすがた)を大陸に伝えるための奉行所が宗像(むなかた)に在り、神武天皇より八代前の天照天皇のご次男が、道主貴(みちぬしむち)として赴任されていました。その時、一歳位の御子をお連れになり、高千穂の峰に登られた事がありました。この御子が「瓊々杵尊(ににぎのみこと)」で天照天皇の孫に当たります。こうした事から「高千穂の峰に天孫降臨」として、国の初まりとしてしまいました。

「神倭伊波礼毘古尊(かむやまといわれひこのみこと)」は、「瓊々杵尊(ににぎのみこと)」の子孫になります。天照天皇の時代は、今から四千二百年位前の事で御座います。太古の昔にこの高千穂の峰の北に「丹生家(にゅうけ)」が配られていました。

 

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2.国譲り

天照(あまてる)天皇から七代目の「饒速日(にぎはやひ)天皇」の御代(みよ)<今から二千六百六十年前>に、九州より「神倭伊波礼毘古尊(かむやまといわれひこのみこと)」が「我も丹生家(にゅうけ)の血筋なのだから天皇になってもよいではないか。」と武力で大和へ侵攻して来たのでした。

時の大和政庁が生駒山の石切りにあり、この「饒速日天皇」の政庁を一気に攻め落とさんと、孔舎衛坂(くさえさか)を進撃してきたのですが果たせず、撤退して紀伊半島を廻り、那智の渚の浜から上陸したのでした。そして熊野の皇祖皇宗の御陵を占拠し「我が言うことに従わなけらば、この墓所とて暴いてしまう。」と談判になれば、「饒速日天皇」は「天皇が戦争に打って出たのでは、最早どちらが勝っても天皇家ではなく王家となり、人間の生命を司る生命継承権憲邪ではなくなってしまい、天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)の大御意志(おおみごころ)である民草和氣(くさなぎ)の倫理(みち)に背くことになります。朕が皇位を引退して、無血の政権譲渡国譲りをしておけば、「神倭伊波礼毘古尊(かむやまといわれひこのみこと)」とて、天皇の立場が何であるのか解る日が来るであろう。また、お互いの若者の生命(いのち)を無駄にせずに済むであろう。」と仰せになり、身を引かれたので御座いました。

「神倭伊波礼毘古尊(かむやまといわれひこのみこと)は、次々と大和を平定していきました。(桜井市)の大室ではどう猛な土着民の土蜘蛛を切り殺したといわれていますが、この方々こそ誇り高き丹生家(にゅうけ)の人々で御座いました。そしてついに、大和の地を平定して橿原の地に大宮を築き、初代神武天皇として即位したので御座いました。

一方、「饒速日天皇」は、尾張の国の一宮、現在の愛知県一宮市今伊勢にあります「酒見神社」(逆身神社)に身をお隠しになられて、わび住まいをなさいました。

 

 

 

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3.神武権力政治

神は七百二十万年前に、人祖に三十八名の御子を生産(うみ)育てさせになり、この大八洲・日ノ本の国をお開きになりました。そして人間に、絶対に争い戦いは致さぬ「御難賛助の御誓約(ごなんさんじょのうけひ)」をさせ、権力政治をさせない仕組みを定められたので御座いました。そして、「秀真伝(ほずまつたえ)に、<本当は、「秀真伝」ではなく「蜂前馬」と書きます。  by 丹波の古老>正統天皇の系譜や古い記録を遺していました。

しかしながら、「神倭伊波礼毘古尊(かむやまといわれひこのみこと)」はご自身を初代の天皇とするために、「秀真伝」を焼却してしまいました、「御難賛助の御誓約(ごんなさんじょのうけひ)」を「五男三女の宇気比(ごなんさんじょのうけひ)」として、五名の男神と三名の女神に仕立てて「天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)」の大御意志(おおみごころ)を封じ込めた上に、天皇家と分家十八家の魂を一津(ひとつ)に結合させて現された、天皇家の「十八弁の菊(聴区)の御紋」から、天照天皇(兄)と速素佐之男尊(弟)の優者の魂を取り除き、「十六弁の菊の御紋」に変えてしまいました。

その上に、熊野(畏野 くまの・畏れ多い方の居る所)の大斎原(おおゆのはら)にお祀りされていた千五百代目の伊邪那岐尊を追い出して、淡路島を男の子の島(オノコロ島)として、国生みの地としました。

また、権力者にとりましては、欠く事の出来ない鉄鉱石を生産する鉱山を所有する丹生家(にゅうけ)の中心人物「速素佐之男尊」と言えば、神武王朝権力にとりましては、すでに千五百年は経っていましても一番手強い人物であり、この大和建国の最大の功労者の事を語られては困る為、尊さまの御霊魂を追い出すために、北杭瀬(きたくいせ)の蹈鞴精練所(たたらせいれんじょ)の八つの溶鉱炉が在りました出雲中国(いずものなかくに)<中部地方>を、徹底的に弾圧し、「速素佐之男尊」を出雲の島に移して「八俣(やまた)の大蛇退治(おろちたいじ)」の物語を創作しました。

やくもたつ いずもやえがき こまごみに やえがきつくる そのやえがきに

この歌は「速素佐之男尊」の偉業と、出雲中国(いずもなかくに)の八つの溶鉱炉を囲っても囲っても隠し切れない事を伝えており、神武天皇に無血の国譲りをされた「饒速日天皇」の国務大臣十八名が流されました出雲の島、ここは「天照天皇(大国主尊)」の関わりのある地であり、神がここに出雲中国(いずもなかくに)の「速素佐之男尊」を花咲かせて、中国(なかくに)の真実を出そうとされたので御座いました。

 

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4.鎮魂祭

神武権力は、人祖家の人々(丹生家)を徹底的に弾圧し、「伊勢の神」までも撤収してしまい、権力者に都合のよい人神をお祀りしたものの、「伊勢の神」の崇高さをよく知っていたため、その咎(とが)により不安になって、神祀りを「鎮魂祭」としたので御座いましょう。元々神祀りは、生命をお与え下さる「天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)」をお祀り申し上げ、生命界に必要なあらゆる物を御創造下さり、生かして下さる事に感謝を申し上げるもので御座いまた。

「饒速日(にぎはやひ)天皇」の時の国務大臣が出雲へ流されておりましたが、その副総理のお「大己貴(おおなむち)」の子「宇摩志摩治(うましまじ)」を遣って「鎮魂祭」をさせ、丹生家の方々が二度と頭を上げてこぬよう監視させました。こうして「速素佐之男尊」を祖とする「大己貴(おおなむち)」の系統が「物部氏」となってゆき、軍を持ち神を管理するようになったので御座います。

 

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5.出雲の御神迎え

「饒速日(にぎはやひ)天皇」の時の内閣「大己貴(おおなむち)」以下十七名の国務大臣が出雲へ流されており、丹生家の人々は出雲がとても気に掛かっておりました。そのために年に一度、先祖の御霊魂(みたま)がお集りになる事にすれば、丹生家の人々を大和から出すことができる。そして「宇摩志摩治(うましまじ)」をうまく遣って丹生家の動向を探ったので御座います。「丹生家のためにも神武派のためにも、うまく中に入って治めてくれれば、それが大和の国のためでもあり丹生家のためでもあるので、この事をよく弁(わきま)えて引き受けてくれないか。」と「宇摩志摩治(うましまじ)」を口説いたので御座いました。丹生家の人々はこれに乗って、各地から集まって来ました。。こうして丹生家の人々を弾圧していきました。そして丹生家の人々は、悪名を付けられ難民化して、山の奥に追いやられていったので御座います。

岡山の県北の出雲街道に、首切りトンネルという所が現在もあります。

このうように次第に丹生家の人々も力が削がれて警戒することもなくなりましたが、軍事を司らせていた物部氏が邪魔になってきて物部氏も丹生家弾圧のために十分働いてくれたけれど、もうこうなっては神武派の内情も知り過ぎたし、何かよい手はないものかと思っていた時に、丁度仏教が伝来し、神道と仏教の軋(あつ)れきが生じた事に託(かこつ)けて、物部氏をうまく葬ったので御座います。

もう日本の神祀りの形を見直していかなければならない時に至りました。神武派の祀った人神を神と唱えるのではなく、生命生産(うみ)出し身生(みあ)れの神の天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)」・日輪太陽界神(太陽)・宇宙産迂迦神(障壁賀)・天生零迦児神(血種遺伝子)・月暦見満引神(月)・産土之地球神(地球)・植物の元生産親(もとうみおや)・人祖「初代」伊邪那岐尊・「初代」伊邪那身命をお祀りし、人間の魂がここへ辿り着ければ生まれ来た事が感謝出来、神のお導きを得てゆく事が出来るとお教え戴きました。

 

 

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饒速日(にぎはやひ)天皇

1.浦島伝説

「饒速日(にぎはやひ)天皇」は、「香語山尊(かごやまのみこと)」と名をお換えなり、丹後国の真名井原の丹庭(たにわ)<元伊勢>の海(あま)<天>部族(べぞく)の地に、赴かれたので御座いました。国譲りの時に神武派にどうしても渡せなかった大丹生家(おにゅうけ)<天皇家>の系譜を、海部族にお渡しする為でありました。

しかし、もうここにも神武派の手が廻っており、人類発祥のこの地も葬られて、九州の高千穂の峰が天孫降臨の地となり、瓊々杵尊(ににぎのみこと)の祀りとなっていました。「こことて危ない。貴方を持て成す事すらままならず、堪(こら)えて下され。」と言ってお断りされました。そこで、「香語山尊(かごやまのみこと)」は、元伊勢の神にお詣りして、もう二度とここへ来る事の出来ない身の上を、改めてご報告なさいました。

こうして、身の置き場を無くされた尊に、海部氏が籠舟(かごぶね)<流人舟>を仕立てて「能登半島の小松の辺りから富山湾の辺りに、確かな者を送り込みます。」とお伝えになりますと、尊さまは越後の「彌彦島(やひこじま)」を常世(とこよ)の国として目指すために、真嶋(まじま)港まで歩いて行かれました。このご様子を見ていた人々は、かつて天皇が即位された時の晴れやかなお姿を想い出され、この度の哀れなお姿に、心を痛めつつ、陰ながらお見送りされたのでした。尊さまは、きっとここへお帰りになりたいであろうと、地元の方々が、尊の御霊魂(みたま)をお迎えする神社を、丹後半島にお造りになりました。それが、「浦島神社」で御座います。

尊さまは、舟旅の途中で、少し陸地が歩きたいと申し出られ、小松辺りで舟を下りられて、能登半島の付け根を富山湾に向けてお歩きになりました。すると丹生家の人々が秘かに訪れて来られて、その中の確かな人をお選びになり、天皇家の系譜をお渡しになりました。その後、尊さまは、天津(てんかい)に通じる神通川の河口より舟にて、彌彦島(やひこじま)へと渡られたので御座いました。

この彌彦島(やひこじま)は川の浸食・堆積作用などにより、現代では陸地続きとなっています。

 

 

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2.松江の賣布(めふ)神社

「饒速日(にぎはやひ)天皇」の国務大臣<大己貴(おおなむち)を含む十八名>は、出雲に流されておしまいになり、伊勢生成(いせいいなり)の神祀りも、先祖供養も許されなかったので御座います。そこで彼らは、秘かに隠し祀りをしていたのでした。その場所が「賣布(めふ)神社」で御座いました。

 

 

 

3.籠神社(このじんじゃ)の由来と蛭児(ひるこ)伝説

神武天皇は、生命生産(うみ)出しになる「伊勢生成(いせいいなり)の神」を消す為に、この御神体を撤去し、天理にあります石上神宮に集めたのでした。天記津州(あきつしま)のもっとも重要な貴天原真名井原(たかあまはらまないはら)の元伊勢も危機を感じ、いっそ神武派の認める神社を造って、元伊勢を隠し宮にした方が潰されるよりはましであるという事で、現在の「籠神社(このじんじゃ)」を造営したので御座います。この宮を籠(かご)としましたのは、籠舟(かごぶね)に乗せられて行かれた「饒速日(にぎはやひ)天皇」を偲び、忘れない為にそのように名付けました。そしてこの境内に「恵比寿(えびす)」さまが祀られて在りますが、これは「饒速日(にぎはやひ)天皇」の隠し名であり、「えびす」と丹生家の人々のことであり蛭児(ひるこ)とも申しておりましたが、籠舟で流人となられた「饒速日(にぎはやひ)天皇」のお姿が、この蛭児と同じ不遇の人とされ恵比寿として祀られました。

また神の御意志(みこころ)そのままに和を尊び、日ノ本の国を建国なさいました「天照(あまてる)天皇」から「饒速日(にぎはやひ)天皇」までの、七代の天皇さまがご在位なさっておられたことを、今日まで伝えていますのが、「七福神」の神々で御座います。

 

 

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伊勢神宮六百六十年間放置

1.崇神(すじん)天皇

太古から與謝身(よさのみ)天皇によって守られて来ました神との誓約が、神武派によって消された事に、深く心を痛められた第十代「崇神天皇」は、天照(あまてる)天皇が伊勢神宮を造営された時、協力をした各地の豪族の御霊魂(丹生家十八家の国常立尊)を、伊勢の国「神祇(しんぎ)の地」にお迎えして出雲と和解し、垂仁二十六年に、「外宮」を完成させる事になりました。

そこで、崇神天皇の皇女「豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)」を丹波の国に遣わせになりました。そして元伊勢の丹庭(たにわ)の與謝宮(よさのみや)に幾歳月もお籠(こも)りになり、ついに豊受の身「神霊拝受の身杖代霊身(みつえしろれいみ)」として、その麗身を迎え入れられたので御座いました。そして更に、大和の建国に協力された国常立(くにとこたち)の故郷(丹波地方)をご巡幸になって、その御霊魂たちを霊妙霊身にお乗せになり、大和の国の笠縫(かさぬい)までお共されました。しかしご高齢になられたため、斎王を辞されたので御座いました。そこで、第十一代「垂仁天皇」は、皇女「倭姫命(やまとひめのみこと)」を遣わしになり、先帝の御意志(みこころ)をそのまま受け継がれる斎王として、神霊拝受の身杖霊身(みつえしろれいみ)となられて、引き継がれたので御座いました。

「外宮」の造営も着々と進んでいること故、「外宮」に先祖祀りが出来る事を、流された出雲の方々に一日も早く知らせて、気持ちを和ませてあげる為に、先祖供養が許された事を伝える使者を出されました。

 

 

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2.景行天皇

しかし、この事が神武派の中で大問題となり、特に「景行天皇」が中心となって反対されたのでした。「そんな事を言った覚えはない。外宮の造営には賛成した。我々の手で管理するのはよいが、彼ら(丹生家)の自由にやらせると何をするか分からない。あなた達は、彼らの底力を知らないからそのような事を言うのだ。」と猛反対されました。こうした事から、垂仁二十六年、とうとう外宮の造営は中断してしまい、それと共に、伊勢生成(いせいいなり)の神をお祀りした三宮(内宮・月読宮・月夜見宮」まがで放置され、ここに奉納されていました不戦の証(あかし)「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と、天照天皇の「胞衣(えな)」も放置されてしまいました。

 

 

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3.倭姫命(やまとひめのみこと)

「倭姫命」が伊勢に着かれる頃には、外宮の造営が完成されているはずでした。しかし宮川を渡る手前に着かれた時、外宮の造営中断した事をお聞きになられた「倭姫命」は、現在の明和町にあります斎宮跡の所まで泣き泣き戻られたので御座いました。そして、この賢所(かしこどころ)に、霊妙霊身に乗せられた国常立(くにとこたち)の御霊魂「豊受大神(とようけのおおかみ)」と放置されていました「伊勢の神」も共にお祀りされました。また、「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と天照天皇の「胞衣(えな)」もお預かりになり、ここでお祀りされたので御座いました。

 

 

 

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4.垂仁(すいにん)天皇

このようになってしまった事を、「垂仁天皇」は深く苦慮され「御自(おんみずか)らの不徳の致す処なり」と思召しになり、丹波の国の貴天原の元伊勢の御霊魂にお詫びされる為に、御参拝になりました。その帰り道、大江山地方の国長(くにおさ)の館跡に立ち寄られ、その素晴らしき御魂所(みたまどころ)に感じ込まれた天皇は、此所こそ皇祖皇宗の御御魂をお祀りするに相応しい神霊地であると思召しになり「皇祖皇大神宮(こうそこうたいじんぐう)を建設されたので御座います。人祖を初め、神武天皇に位を剥奪された大丹生家(天皇家)・丹生家(分家)の全ての御霊魂をお祀りなさいました。

 

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5.出雲大社

垂仁二十三年に、出雲の丹生家の方々に先祖祀りを許した事から、このような事態になってしまいました。しかし一旦許したものをまた禁ずるのは、益々丹生家の人々の気持ちを損ねてしまうので、何か良い方法はないものかと神武派として考えた事は、個々の祀りは許さないが、皆で一緒に祀るのなら好い事にし、もちろんその管理は神武派の者がするという事に決めたのでした一箇所に祀るのなら、どのような物でも構わないという口車に乗せられて、出雲丹生家の方々は、大和に居る丹生家の土木技師などを呼び集め、とてつもない大きな神殿を造られたので御座いました。これが、「出雲大社」で御座います。

そして「伊勢神宮」の参拝者に、十月は神無月(かんなづき)で神さまは全部出雲大社に集まると伝えて、「伊勢神宮」を消していきました。

その後、二十一代「雄略天皇」の御代(みよ)に外宮が造営されましたが、丹生家十八家の御霊魂(みたま)祀りではなく、「護国豊穣の神」としてしまい、ここに大きな誤りを生じたので御座いました。

 

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6.三宝荒神(さんぽうこうじん)

日ノ本の国に、太古よりお祀りして来ました「伊勢生成(いせいいなり)の神」が神武東征により消されてゆき、ついに伊勢の内宮までが放置されてしまった為、丹生家の意志(こころ)ある人々によって、生命生産(うみ)出しの御神理氣を、秘かに三津に分散させてお祀りをしました。

息津(おきつ)「日輪太陽津神(にちりんたいようかいしん)」を高野山の奥に「立里荒神(たてりこうじん)」として、湍津(たぎつ)「宇宙産迂迦神(うちゅううがしん)」の丹生津(にゅうつ)の神を大神(おおみわ)の裏に「笠荒神(かさこうじん)」としてお祀りされ、更に邊津(へつ)「産土之地球神(うぶすなのちきゅうしん)」を宝塚の中山に「清荒神(きよしこうじん)」としてお祀りし、「三宝荒神(さんぽうこうじん)」と申し上げ、太古よりの神をお守りしてきたのでした。

垂仁二十六年に「伊勢神宮」が出来たのではなく「伊勢の神の身生(みあ)れ祝詞(のりと)」が消え、「筑紫(つくし)の国の日向(ひゅうが)の阿波岐原祝詞(あわぎはらのりと)」を内宮で唱えた為、「伊勢生成(いせいいなり)の神」は「日神山」にお移りになったそうで御座います。この「日神山」は「日輪太陽」の「日」と神理氣の「神」とを戴き、「速素佐之男尊」が名付けられた尾張族の「神山」で御座います。

 

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飛騨丹生家(ひだにゅうけ)

1.富山の皇祖皇大神宮(こうそこうたいじんぐう)と位山(くらいやま)

また時を同じくして、「武内宿禰(たけのうちのすくね)」は、天皇の系譜(人祖から饒速日天皇まで)を基に、富山に皇祖皇宗の御霊魂をお祀りする「皇祖皇大神宮」を御造営になりました。この系譜こそ、あの「饒速日天皇」が流人となって「彌彦島(やひこじま)」へ行かれる途中、能登で確かな者(飛騨丹生家の方)に渡されたと言われる皇祖の系譜で御座いました。

当時、神武の権力は強く、皇祖の御霊魂を打ち捨てて権力で天皇の座を奪ってしまいました。「武内宿禰(たけのうちのすくね)」は、もはや丹生家の復活は難しいと悟られ、神武派に剥奪された皇祖の御位(みくらい)の全てを、飛騨の分水嶺であります神通川の源流にある「位山(くらいやま)」の山頂に伴われて、一番高い所の磐座(いわくら)を中心に「御身生(おんみあ)れ祝詞」を奏上され、皇祖皇宗の御位を納め置かれたので御座いました。

今日、この「位山」の森厳(しんげん)で育て上げた「一位(いちい)の樹(き)」が「御勤製(ごきんせい)の笏(しゃく)」となっており、毎年、天皇に献上されているので御座います。争い戦いは致さず大和(だいわ)で国を治める「御難賛助の御誓約(ごんなさんじょのうけひ)」の更新の祭りが「大嘗神祇祭(だいじょうしんぎさい)」で御座いますが、この天皇御一代毎に行われます「御即位の大礼」にお召しになりますのが、神との約束の帯(麻衣の束帯)とこの「位山」で育てられた「一位の笏(しゃく)」を持って、今日まで厳粛に執り行われているので御座います。

 

 

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2.水無神社(みなしじんじゃ)<位無神社>

「武内宿禰(たけのうちのすくね)」はこの「位山」の麓に位無(くらいな)き皇祖皇宗の御霊魂をお祀りする「位無神(みなしじんじゃ)」を造営なさいました。

この地域に住んでいた「飛騨丹生家(ひだにゅうけ)」は、特に最後まで大和の誇りを持った民族でありました。神武権力によって大切な大和の歴史が消されていく中、所詮かなわぬ身ではありますが、大規模な一揆を起こして立ち上がったので御座いました。

しかし、処刑されたり自害された方々が、最後の集会所とされたのが、この「位無神社」でありました。そのような中で、最後まで抵抗した方々は差別の部落にされました。これより前に、この地を逃れて他に移った人々が「八幡神社」をそれぞれがお祀りして遺されたのが「大八ケ村」だそうで御座います。

 

 

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3.日輪神社(にちりんじんじゃ)

乗鞍の頂上を大丹生山(おにゅうやま)と称し、この山を御神体として、太古の昔から夏は日の出を拝み、夜には乗鞍の山頂の池の周りに集い、池に映った月を拝む神仰をしていました。冬は山に登れない為、山頂かの池から流れる丹生川の辺りにある山に「日輪神社(にちりんじんじゃ)」を建立して、日の出に手を合わせて感謝の参拝をなさいました。今日まで村社として大切にされ、祭りの日を毎年九月三日と決めて、天気はどうあっても必ず執り行われて来たそうで御座います。

和の霊魂(たましい)「御難賛助の御誓約(ごなんさんじょのうけひ)」に従い、統一国家を成し遂げられたご先祖のお姿を伝えた最後の民族で御座いました。日本全国で「日輪神社」と称するのは、只この一社だけだそうで御座います。

「飛騨丹生家」の人々は太陽の真光(しんこう)で練り阿弥生産出(あみうみだ)された「丹(に)」と「芒種(ぼうしゅ)のエネルギー」を待機させている黄金の施津(せかい)が「日輪津(にちりんかい)」であることをご存じで、全ての生氣物(いきもの)を生産育(うみはぐく)む元である「天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)」の大意志(おおみごころ)そのものである事を理解されて「日輪」を崇め奉ったので御座いました。

 

 

 

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4.袈裟山(けさざん)・千光寺

時は平安時代となり、仏教が伝来していた事により、丹生家の方はこの仏教を隠れ蓑として僧侶になって弾圧から逃れて、人祖の歴史を密かに隠し遺したので御座いました。(泰澄大師・空海大師)

そのような中で「嵯峨天皇」は、飛騨の「位山」に大丹生家・丹生家の位を剥奪された多くの御霊魂をお祀りする「袈裟山(けさやま)・千光寺」を建立なされました。「袈裟(けさ)」とは僧の位を表し、天皇の皇子の真如親王(しんにょしんのう)を初代のご門跡とされたので御座いました。(真如新王は弘法大師の十弟子のお一人)この千光寺の御本地仏は「十一面千顏千手観音菩薩」とされ、位を召された大丹生家・丹生家の方々の御霊魂処・御霊魂祀りとされたので御座います。

「十一面千顏千手観音菩薩」は、人祖とその御子三十八名を現す仏さま。

 

 

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日本武<長>尊(やまとたけるのみこと)

1.蝦夷征伐(えぞせいばつ)

神武東征以後、日本の国は序々に権力者が頭をもたげ、ついに伊勢の内宮までが放置される事態となってしまいました。第十二代景行天皇の御代(みよ)には、速素佐之男尊の威光を遺す尾張族を潰す策略が練られていました。尾張の国のことを葦原中国(あしわらなかくに)とも出雲の国とも言い、美濃・尾張・三河の三ヶ国を中心としていました。特に美濃国の赤坂の地の金産山(かなぶやま)が、「建稲種尊(たけいなだねのみこと)」の掌中にあることが尾張族の繁栄をもたらし、丹生家の中心拠点とな」」っていたため、神武権力者がこの金産山を召し上げようと企てていたのでした。

景行天皇の第二皇子の「小碓尊(こうすのみこと)」を遣わして、蝦夷征伐するという名目で、尾張族を従わせてその力を削ぎ、尾張族の旗頭(はたがしら)「建稲種尊(たけいなだねのみこと)」が帰還したところを討ち取って「日神山」を一気に進撃する計画でありました。

今から約二千年位前「小碓尊(こうすのみこと)」は、父景行天皇に「蝦夷征伐」を命ぜられました。今、熊襲(熊襲)を征伐して帰ったばかりだというのに、今度は蝦夷を征伐しろとおっしゃる。何故なのか、反乱でも起こしたのだろうかとお尋ねすれば、「いらざる事は聞かずともよい。征伐に行けと言われれば行くのが其方(そなた)の使命である。」と仰せになり、尊はそれ以上、何もお聞き出来なかったので御座います。

この征伐の副将軍には、尾張族の旗頭「建稲種尊(たけいなだねのみこと)」が任命されました。「小碓尊(こうすのみこと)」は仕方なく「日神山」の館へ向かわれたので御座いました。そして征伐のための荷駄軍船(にだぐんせん)を、尾張の国と三河の国を分ける境川の河口にあります南島に集結させ、「小碓尊(こうすのみこと)」はわずかな供を連れて、「日神山」の館を出られ、徒歩にて南島に向かわれたので御座いました。

 

 

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2.「日本霊魂(やまとだましい)」誕生の森

「小碓尊(こうすのみこと」はその道すがら、南島が見える丘の上に立たれた時、南島とその奥に続く衣浦(きぬうら)の海を見つめながらふと想われた事は、蝦夷が何をしたのか解らず征伐するのでは我が正義が赦さない為、征伐に行くのではなく、皆と和する愛の産霊(むすび)に行こうと天に向かってお誓いになりました。すると、そこより少し下がった処に在ります森の中の大銀杏の樹の上に、熱田の神「大正腑天神(だいしょうぶてんじん)の大神」が、一度だけお姿をお見せになり『小碓尊よ、その霊魂(たましい)こそ日輪太陽の大御意志(おおみごころ)であり、生きとし生ける全ての命に、志合(しあわ)せと福祉をもたらす「日本霊魂(やまとだましい)」である。今日より「日本長(やまとたける)」と名乗るがよい。』と仰せになりました。日本の長(おさ)に相応しい霊魂(たましい)を持つ「小碓尊(こうすのみこと)」でありました。

 

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3.大正腑天神(だいしょうぶてんじん)の大神を祀る

「日本長尊(やまとたけるのみこと)」は急いでその森の中にお入りになり、大銀杏の根元に神をお祀りなさいました。ここが日ノ本の初めて熱田の正腑(しょうぶ)の神「大正腑天神(だいしょうぶてんじん)の大神」がお祀りされた神霊地で御座います。「熱田神宮」はそれより三百年位の後に尾張族によって建設されました。

 

 

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4.大府(おおぶ)村の誕生と準貴天原(じゅんたかあまはら)

その後、「日本長尊(やまとたけるのみこと)」がお立ちになられた跡地を「意志塚(石塚)」と名付け置かれ、その辺り一円を「愛原(あいのはら)」とお呼びになりました。そしてその森の西に続く池を宮池とされ、その下を流れる小川を意志根(石根川)と名付け置かれたので御座いました。

愛と正義と良心の根源、熱田の正腑(しょうぶ)の神「大正腑天神の大神」をお祀りされた森を「大腑(たいふ)の森」とお呼びになられた事が、何時しか「大府(おおぶ)の森」と言われるよういなり「大府村」が誕生したそうで御座います。この神をお祀りした所は、現在の愛知県大府市にあり、加古藤市氏のお宅と所有地で御座います。

この土地は昔から神社があり、神が祀られていた地であると言われていましたが、日本の国で最初の「大正腑天神の大神」の祭り場とは知る由もなく、昔から尾張の国は、何時の時代にも一国を左右する程の人物が誕生しますのは、このよう聖地であったからである事を、神がお知らせくださいました。

これらのことを神霊天津(てんかい)では「日本霊魂(やまとだましい)」復活の名誉に鑑みられて、この一円を「愛原(あいのはら)」とされ、更に「準貴天原」としてこの生命界地球に異変のある時には「弥勒(三六)の再下生(さいげしょう)の神聖地」とすることを定め置かれたので御座いました。

 

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5.内々峠(うつつとうげ)

「日本長尊(やまとたけるのみこと)」は、父景行天皇の命により、尾張族の「建稲種尊(たけいなだねのみこと)」を副将軍として、蝦夷への愛の産霊(むすび)の活動氣(はたらき)をしての帰路、内々峠へ来た時、幡頭(はず)の欠港(かけのみなと)で「建稲種尊(たけいなだねのみこと)」が襲われて亡くなられた悲報をお受けになり「現(うつつ)だった! 現だった!」と地面をたたき嘆かれたので御座いました。

 

 

6.白鳥伝説

「日本長尊(やまとたけるのみこと)」は、内々峠で死を覚悟され、尾張族の日神山の館にお住まいの「建稲種尊(たけいなだねのみこと)」の妹である「宮簀媛命(みやずひめのみこと)」をご訪問されてお詫びをされました。そして、蝦夷征伐の計画を立てたのは、一体誰なのか知りたかった為、剣を「宮簀媛命(みやずひめのみこと)」にお預けになり、丸腰で日神山の館を出発され、伊吹山の山裾を通り「醒ヶ井(さめがい)」まで行った時、それが父であった事を知るのでありました。長尊(たけるのみこと)は、情けない思いをなさいましたが、それでも父を立てて、もし我が死骸を遺したのならば父は困るであろう。父にそのような不幸を掛けられないとおっしゃって、死骸なき死を遂げたのでした。

こうした事から白鳥伝説が遺り、白鳥古墳があちこちと造られたので御座いました。ここまで追い込まれても父を恨まず、それどころか父を思いやれる程のお方であった。このようなお方こそ大和民族の誇りで御座いましょう。

「日本長尊(やまとたけるのみこと)」が大和への望郷の思いを読まれた詞

大和は国のまほろば  たたなづく  青垣山隠れる 大和しうるはし

 

 

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7.景行天皇

権力に乗って、外宮の造営にも横槍を入れて「景行天皇」は、日本霊魂(やまとだましい)を貫こうとされた二人の皇子「大碓尊(おおうすのみこと)」と「小碓尊(こうすのみこと)」を失ってしまいました。天皇は亡き皇子の辿られた所を巡行され、ご自身の過ちを悔いて、この浅ましい想いを終わりにする決意をされ、東谷山(とうごくさん)に「終所神社(おわりべじんじゃ)<尾張戸神社>」をお建てになり、そこに、無血の国譲りをなさいました「饒速日(にぎはやひ)天皇」をお祀りになりました。その山の麓に、我が皇子「日本長尊(やまとたけるのみこと)」の白鳥御陵をお造りになり、皇子の御霊魂(みたま)を慰め弔ったので御座います。

 

 

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8.熱田神宮の建設

その後、尾張族も神武権力者に利用され、ついに最後の力で「熱田の神」をお祀りする大社殿「熱田神宮」を造営し、終わりを遂げていったのでした。終わらす為に建設させた権力者の目論見でありました。

 

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神功(じんぐう)皇后

「神功皇后」は神武権力が伊勢の神(八和幡之大神)をつぶし、「神武天皇」に都合の良い神祀りをしていることはご存知で御座いました。皇后が、「仲哀(ちゅうあい)天皇」(第十四代)と共に三韓征伐に向かわれる道中、九州の地で御子をお宿しになり、新羅へ渡る船の中でその事にお氣付きになりました。今まで男性的で勢いのおありであった皇后が、一転して母性本能をお見せになり、この戦争は出来るだけ穏便に済ませようと相手方と相談され、和が成立してお帰りになりました。

この御子の命は、天皇と最後の和みをなさいました時に授かり、(帝はそのままお亡くなりになりました)我が君の残して下さいました宝であり生命をお与え下さいました「八和幡之大神(やわたのおおかみ)」のお陰と、九州の宇佐の地に八幡宮を御造営になり感謝の祈念をなさいました。今までの荒々しいご自身の言動があまりにも恥ずかしく、都へのお帰りの途中、甲山(かぶとやま)にご自身の甲冑(かっちゅう)や剣など埋け(い)けておしまいになりました。そして浪速(なにわ)に、「住吉大社」を伊勢の内宮に向けてお建てになり、生命を宿して下さる男神への感謝をなさいました。

こうして「八和幡之大神」を潰して来ました。「神武天皇」から十四代目の天皇の代で、やっとこの神を復興されましたが、またもや権力者がこの御神理氣を消してしまい「仲哀(ちゅうあい)天皇は九州でお隠れになっても、皇后には御子が授かった。これは正(まさ)しく神の化身である。」と言って誉田別尊(ほんだわけのみこと)<応神天皇>を神であるとし、その後、八幡神社には誉田別尊が神とてお祀りされました。故にこのお三方の御霊魂は安らげないので御座います。

 

 

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聖徳太子

神武天皇に政権譲渡されてから、千年余りの歳月が過ぎて仏教が伝来して来ました。「聖徳太子」は日本仏教最初の祖師と言われてきましたように、日本古来からの教えを重んじ、それを仏教に繁栄させていかれました。「絶対なる五神理氣」を法隆寺の五重塔で現され、三尊の仏さまなどは、「三位一体の生命継承権憲邪」さまを現したもので御座いました。仏さまの三尊像は日本独特の仏さまで御座います。

更に、太子は憲法十七条の布告も行い、それまでの豪族支配から天皇中心の政治体制への変革を勧めていかれました。この十七条の憲法は元は「十九条の憲法」(大丹生家・丹生家の十九組に従い)でありました。

しかし、その中の二条の内容が、神武権力にとりまして都合の悪いものであった為に、太子から六代位後の頃に外されて、十七条として発表されたそうで御座います。その頃の地を権力者たちが召し上げようとした時、和を貴ばれた太子は争いを避けようと、この地に毘沙門天(神の意志を受け取ることの出来る魂の持ち主)をお祀りして諫(いさ)めた事もありました。平群(へぐり)族の方々は涙をのんで他に移転して行かれたそうで御座います。

また、丹生家の方々を救う為に「補陀落信仰(ふだらくしんこう)」を興して、「那智の海の向こうに極楽浄土があるので皆行きなさい」と言って、関東に逃したのでした。沖合一キロメートル余りで黒潮に乗れ、関東までは早く行く事が出来ました。「日光東照宮」の隣に補陀落寺(ふだらくじ)がありますが、東照宮よりも前に建てられております。浅草観音も「補陀落観音(ふだらくかんのん)」で御座います。関東のこの辺りには、大和から逃れていった丹生家の方々が大勢住んでいました。

こうして太子は世救いをするための「救世観音(ぐぜかんのん)」をお造りになり、丹生家の人々を救われた事が、神武権力者に知られてしまい、一家一門惨殺され、法隆寺は焼き討ちに遭ってしまいました。

聖徳太子の御陵が尾張の猿投山に在るそうで御座います。「平将門」は補陀落信仰をしていました。

 

 

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天武天皇(第四十代)

1.壬申(じんしん)の乱

兄「天智天皇」(第三十八代)は、弟「大海人皇子(おおあまのおおじ)」は天皇になれない身分であるので、せめてご自身が天皇の内に朝廷にとって重要な職を与えようと、美濃の国の金産山(かなぶやま)の鉱山を所領させて管理させる為に、五つの荘園と二つの飛び地をお与えになりました。しかし「大海人皇子」は、この事を上手く利用して武器を大量に蓄えて、朝廷からの注文をごまかして、神武派との確執のある丹生家の人々に渡して手懐(てなず)けていたので御座います。そして吉野に隠棲(いんせい)し、皇位の野心のない事を明らかにしたように見せかけておりました。しかし「天智天皇」が死去し、娘婿の「大友皇子」(第三十九代・弘文天皇)が政権を執るや否や、吉野から脱出して伊賀を通り一晩にして美濃へ帰り、挙兵したので御座いました。「大海人皇子」は丹生家の人々に、「いつも時代の変わり目には、あなた方は冷飯ばかり食べさせられていますが、悪いことばかり続くことはありません。必ず佳い時が来ますから、その時は一緒に立ち上がりましょう。」と言っていました。こうして丹生家の人々を利用してゆき、天照(あまてる)天皇がお生産(うま)れになられた地の血統神社(正統天皇の血統を表す神社)にまで行き、戦勝祈願をしていたので御座います。

そしてついに、美濃の「不破(ふわ)の関峠」で「大友皇子」の近江朝廷軍を打ち破り、「大友皇子」を自決に追い込み、首実験をさせるなどして勝利に導きました。自害峯(じがいほう)では沢山の人を処刑したそうで御座います。こうして皇位を継承され第四十代天武天皇となられました。そして丹生家の人々を尽(ことごと)く弾圧してゆきました。そのため現在も岐阜県には、「両面宿禰(りょうめんすくな)」が来たというお話しが残っております。飛騨の丹生川村にあります「千光寺」にも、円空上人が刻まれた「両面宿禰(りょうめんすくな)」の像があり、一面は優しいお顔でもう一面は恐ろしい相になているそうで御座います。また奈良県明日香村に在ります「橘寺」にも両面石があり、時の権力政治には要注意である事を警告したものと想われます。

 

 

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2.民草和氣(くさなぎ)の剣を取り上げる

こうして絶大な権力を掌握した「天武天皇」は、丹生家の大切な御神体・宝物などを供出させて石上神宮(いそのかみじんぐう<天理>へ葬りました。かつて「日本長尊(やまとたけるのみこと)」」が納められていた天下の宝刀「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」までも召し上げようとした為、尾張族に断られたので御座いました。それならば無理やりにでも取り上げるまでの事だと言って、中国の僧を遣わせ忍び込み、持ち去ったのでした。そして石上神宮に一時置かれ、神魂の打ち込まれた「民草和氣(くさなぎ)の剣」を軍力武力の力を象徴する布都の刀にしてしまいました。

 

 

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3.吉野創根ケ峯(あおねがみね)の解体

大丹生(おにゅう)童児さまが、人類最初の神祀りとして、植物・動物・人間の生命継承権憲邪さまをお祀りされた吉野山の解体に乗り出されたのでした。その当時の創根ケ峯の祭主でありました「役小角(えんのおずぬ)」(葛木丹生家・賀茂一族の筆頭の家柄)を呼び出されて、「我が日本国の初めの地は、筑紫国(つくしこく)の日向(ひゅうが)の高千穂の峰であるというのに、この吉野山の創根ケ峯の山頂に、何やら得体の知れぬ神祀りをしていると聞くが、即刻取り払い山下に降ろすべし。」とお命じになれば、「役小角(えんのおずぬ)」さまは冷静に、「天皇の御詞なれど、私たち丹生家の者は生命継承権憲邪さまの命によって、先祖累代お祀りし続けてきた事にて、人祖の御詞でなければ止める事は出来ません。」とお答えになると、直ちに逮捕され、伊豆の大島に流罪にされてしまいました。創根ケ峯の三津(つ)の神霊石は、山の下に降ろされましたが、まだお気に召さず、更に下に降ろさせになり、もとの神霊石を祀ることは許さず、現在の吉野の水分の神に変えてやっとお許しになりました。

 

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4.三八子(みやこ)・石槫(いしぐれ)の破壊

次にされたのが、北伊勢国の大安町石槫(いしぐれ)に在りました大和民族の三八子(みやこ)を徹底的に攻撃したので御座います。丹生家の人々は「大丹生天皇(おにゅうすめらぎ)」を逃すために人垣を造りましたが、多くの方が討たれ、やっとの思いで天皇をお守りし、四国へ逃れて行かれたので御座いました。一部の方々は出雲に逃れていかれました。今も員弁(いなべ)には、その時に無念の死を遂げた人々を葬った麻績塚(おみづか)が遺されています。

四国へ逃れた方々は員弁(いなべ)を忌部(いんべ)と名前をお替えになり、白人(隠れ人)となり落人(おちゅうど)となられ、山の上に隠れ住んだので御座いました。一方、松江に逃れた方々は、伊勢生成(いせいいなり)の神祀りをしていた為、神武派に見つかり、神殿は焼き払われ重刑に処せられてしまいました。

現在、四国の徳島県美馬郡穴吹町に「白人神社」がありますが、この辺りに七十五名の「丹生家」の方々がお住まいになり、他の方々は、麻を織る技術を持っておられ、麻植郡へお移りになり「大丹生家」の伝統を守り続けてお出でになります。

この「白人神社」の宮司さまのお話しによりますと、この神社の秋祭りには、この「七十五名の宮人」の方々でなければお神輿(みこし)は担げないそうで御座います。又、お正月に行われます「御的(おまと)」という行事には、竹を割って的を作り、中央に鬼と書いて七十五本の矢を射るそうですが「鬼」とは「大丹生家」を表し我らこそ正統天皇(すめらぎ)の血筋であると、年の初めに改めて皆に知らせておられたのかもしれません。

また、この「白人神社」のすぐ傍らの小高い山に「五社三門(ごしゃさんもん)」が祀られた「磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ)」があります。百五十七段もある苔生した石段を上がりますと、石を積み重ねた三門と、その中に五社が祀られている簡素な祀りで御座います。

天武天皇によって、太古の神祀りが尽(ことごと)く潰される中、四国へ逃れた「大丹生家・丹生家」の方々により、山の上に秘かに隠し祀りがされていて、今日まで遺されていたので御座いました。

「五社」とは生命生産(うみ)出しの「絶対五神」さまと、「三門」は植物・動物・人間の霊命遺伝子(丹生丹生魂遺伝子)が天津(てんかい)の宇宙産迂迦(うちゅううが)の障壁賀にあります「天王平(てんのうびら)」をお出ましになる「天の意和戸(あまのいわど)」で御座いました。

 

 

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5.丹生家を差別の部落に

このようにして大丹生家(天皇家)を追放しておいて、畿内に赴任していた丹生家を差別の部落にし、大八洲に配られていました孫たちの丹生家も差別の部落にされていました。また、二度と頭をもたげる事が出来ないように三津(つ)の掟を定めたのでした。

一津(つ)には、土地を所有する事を禁ずる

二津(つ)には、部落以外の者との結婚を禁ずる

三津(つ)には、商いをする事を禁ずる

こうした禁止令によって、千数百年間差別の部落民として黙黙殺される事となってしまったので御座いました。

 

 

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6.古事記の編纂(へんさん)

そして最後の仕上げとしまして、人祖「生命継承権憲邪」さまが遺された「秀真伝(ほずまつたえ)」が邪魔になり、徹底的に調べ出して消してしまいました。その後、代理の「秀真伝」を書こうとされた方々も弾圧を受けてしまい、結局、中途半端なものしか書き遺せなかったのでした。そして神武天皇を初代天皇として、人類発祥の地、與謝津(よさかい)「天記津州(あきつしま)」を葬って、筑紫(つくし)の日向(ひゅうが)の高千穂の峰を天孫降臨の地として、国史の編纂をさせたので御座います。熊野の「大斎原(おおゆのはら)の皇祖皇宗の御陵」を消すための神話を作り、オノコロ伝説としてしまいました。古い歴史をよくご存知であった飛騨丹生家の出身の「飛騨阿礼(ひえだのあれ)」を呼び出して、人祖に係る事は語らせず、神武天皇を初代の天皇として物語を作られになり、事実を語れば生命(いのち)がない為、ぶるぶる震えながら書いたそうで御座います。そして、ついに「御難賛助の御誓約(ごんなさんじょのうけひ)」をされて大和建国の偉業を果たされた與謝身(よさのみ)「天照(あまてる)天皇」の太古の歴史を、天津(てんかい)の神話にして、兄「天照天皇」を女神に仕立て、弟「速素佐之男尊」と近親相姦(きんしんそうかん)にして「五男三女の宇気比(ごなんさんじょのうけひ)」としてしまいました。

こうして大和の国を征伐した「神倭伊波礼毘古尊(かむやまといわれひこのみこと)」を初代天皇として、神まで武器に変えてしまう神武権力政治が確立したので御座いました。

 

 

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7.天武天皇臥(ふ)す

こうして、神魂の打ち込まれた「民草和氣(くさなぎ)の剣」を、争いを象徴する「布都の刀」にし、丹ノ本(にのもと)の「天記津州(あきつしま)」を消して人祖を葬り、ついには大和建国の歴史まで葬り去った「天武天皇」は、ついに脳を患い気が狂(ふ)れておしまいになりました。これはきっと「剣」のなせる業であろうと、直ちに「熱田神宮」へお返しになりました。現在でも、日上山と熱田神社では「剣」が帰ってきた夜に、毎年神事が行われ、神社の関係者が「剣」を中央にして集まり、「だから言わぬことではない。」と言って高笑いをするとお聞きしております。

病は周期的に天皇を襲い、我に返ると今までやってきた数々の罪に身を震わせ、涙に暮れるので御座いました。天皇は「伊勢の神」へのお詫びが済むまでは、決して殯宮(もがりのみや)から出さぬようお命じになりました。すぐに葬儀をしてしまうと、神へのお詫びが解けない限り成仏できず、迷い御霊魂になってしまい、更に苦しみに耐えねばならないので、次の天皇にお詫びをして欲しいと遺言なさいました。歴代の天皇の中でももっとも長く殯宮(もがりのみや)にお出になりました。

天皇の余りのお姿に、神罰を恐れて次の天皇になるお方がなく、皇后が天皇になられ、第四十一代持統天皇として、伊勢湾を一周する神へのお詫びのご巡幸をなさいました。(民草和氣の倫理 くさなぎのみち)

天皇の病には周囲の人々もお困りになり、病気平癒のためにお寺を建てて祈願なさいました。そのお寺が「元長谷寺」で御座います。そこには、天皇が脳をお患いになり、その病気平癒のために建てると記されています。

天皇をなぜこのような病にしてまで葬られたのか。神が次のように仰いました。「普通の病で命で召し上げたので、偽った国史の始末が出来ず、生命継承権憲邪の血統にはじまった、大丹天皇家の尊厳が保てなくなり、災いばかりの世界が台頭して、生命界は退廃して逝くばかりであります。気が狂(ふ)れた者が編纂した国史であれば、天武天皇とともに「古事記」も葬ることが出来るはずであります。」と仰せになり、人類の未来を予見されながら、後の世を見守られたので御座いました。

神武権力の総仕上げをしましたのがこの天武天皇で御座いました。人祖家として、人類の平和の大きな責任を担っております大和民族が、今日も尚、同じように民衆不在の政(まつりごと)となっている為、今や全世界的な悲劇が始まろうとしています「斡旋利得(あっせんりとく)の権力政治」では、もう日本の国は滅んでしまうと、神が仰せで御座います。

〇権力を恐れて媚び諂い(こびへつらい)、軍功手柄を立ててその褒美に金銭や土地を貰う政治。

 

 

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持統天皇(第四十一代)

1.伊勢神宮の再建と式年遷宮

本来ならば天武天皇の代で、生命継承権憲邪を祖とする「大丹生天皇家(おにゅうすめらぎけ)」は途絶えてしまい、大和国を征伐した神倭伊波礼毘古尊(かむやまといわれひこの)を初代とする、神武王家が成立するはずでした。しかし辛うじて天皇家が存続できましたのは、夫であります天武天皇の行った数々の罪の深さをよくよく認識しておいでになりました「持統天皇」の神仏へのお詫びの入れ方にありました。

今から四千二百年前、天照(あまてる)天皇が、丹波国の真名井原丹庭(まないはらたにわ)より伊勢の地にお移しになりました「伊勢神宮」が、約六百六十年もの永きに渡り放置されていたものを、見事に再建あそばされると共に、吉野山で、丹生家十八家が二十年毎の交替性をもって役小角(えんのおずぬ)までお守りされた創根ケ峯の制度を、伊勢神宮に取り入れになり、風化させない為に二十年毎の式年遷宮の制度をお定めになりました。

 

 

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2.天皇継承の剣

そして次期天皇から、大和民族の至宝霊魂(しほうたましい)であります「民草和氣(くさなぎ)の剣」を「天皇継承の剣」とされた事により、生命継承権憲邪が貸与され、天皇家の存続が認められたので御座いました。その後は、お詫びのために「民草和氣(くさなぎ)の倫理(みち)」を御巡幸になりました。

 

 

 

3.民草和氣(くさなぎ)の倫理(みち)の御巡幸

〇玉渇水(たまかっすい)<魂活水>

まず、菰野(こもの)に在ります「玉渇水(たまかっすい)」に御参拝になりました。ここは日出ずる丹ノ本(にのもと)の瑞穂(みずほ)の国生みに、大きく和してゆく霊魂(たましい)を活性させになった太古よりの泉で御座います。天照(あまてる)天皇・速素佐之男尊・猿田彦尊・饒速日(にぎはやひ)天皇・日本長尊(やまとたけるのみこと)も飲まれ日本霊魂(やまとだましい)を育まれた霊水で御座います。

 

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〇野代宮跡

続いて尾津前神社から、桑名郡多度下野の「野代宮跡」をお訪ねになり、倭姫命(やまとひめのみこと)のご使命でありました、国常立の御霊魂(みたま)集めの「登頂一千日の願掛け祈願」にお礼をなさいました。

 

 

 

〇北伊勢神宮

そして対岸の小山(おやま)の舟着き場に降り立たれて、日輪太陽の御神霊をお祀りされている多度の小山の天王平(てんのうびら)に手を合わせられ、アマテルカミ尊と速素佐之男尊との御会見に想いを馳せになりました。天王平のお社は、雄略天皇(二十一代天皇)によって再建されていますが、風化が激しく、放置された社に涙され、日出ずる丹ノ本(にのもと)の建国発祥の地に伝わる「御難賛助の御誓約(ごなんさんじょのうけひ)」の意義を改めて顕彰されて、雨風から神社を守るために、現在の多度の小山の麓、桑名郡多度町多度に改めて社殿を造営され、天王平より御神霊をお迎えし謹みてお詫びになり「北伊勢神宮」とお呼びになりました。

 

 

 

〇喪山(もやま)

次に垂井(たるい)の笹原にあります喪山(もやま)にお登りになられ、「伊勢の神」の御神聖(ごしんせい)「民草和氣(くさなぎ)の御神氣(ごしんき」を貫き通された「饒速日(にぎはやひ)天皇」・「日本長尊(やまとたけるのみこと)」がこの山にお登りになり、「昨日までの我が領地・山河であったものが、今日は喪してしまい、生きながらの喪人(もびと)となってしまった。」と仰せになられて以来、この山も喪山となってしまいました。同じ天皇でありながら権力が人を分け、生きながらの喪人を葬り捨てたことは余りにも恐ろしく、このお二方の御意志(みこころ)を察し、涙ながらにお詫びされたので御座いました。

 

 

 

〇金産山(かなぶやま)に鎮護国家の道場

美濃国の「金産山」を制する者は天下を制すると言われるごとく、天武天皇は近江朝廷の中にあって、美濃国に領地を賜りこの山の管理を任されたのを幸いにして、秘かに私的な武器を大量に蓄えて、壬申の乱では、日頃から手懐けていた尾張の丹生家の人々を集めて武装させ、先ずこの「金産山」を制圧して近江朝廷軍を不破関峠で撃破し、大友皇子を自決に追い込んで皇位を継承されたので御座いました。このような天皇になるお方の正気の沙汰とは思えない数々の悪行に、この先帝になり代り「天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)」に謹みて深々とお詫びなさいました。「金産山」の頂にお立ちになられた「持統天皇」は、何とかしてこの山の鉱石を、民草の志合わせのためにのみ活かしてゆきたいと願われたので御座います。そして、笠縫邑(かさぬいむら)の精錬所から天に昇って行く出雲を眺められた時、太古の昔「速素佐之男尊」が伊久良河宮に「伊勢の神」をお祀りし、根尾川で身を清めになり、その下流の笠縫にて「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」」を民草和氣(くさなぎ)の御神氣でもって鍛え上げになられた、その精神をそのままにこの山頂に移されて「鎮護国家の道場」を建設になり、北伊勢神宮(多度大社)の御神霊をお招きされて、開場式典をお挙げになりました。そして壬申の乱の如き過ちを二度と侵さぬ為のお詫びの御祈願をされ、この山の鉱石を人間世間の志合わせの為に生かす山「金生山(きんしょうざん)と改名なさいました。この鎮護国家の道場を通して、地球の平和・国の安寧のために尽力出来る「日本霊魂(やまとだましい)」の持ち主の養成に努められ、この世の永遠の弥栄(いやさか)を祈り続けられたので御座いました。

 

 

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〇逆見(さかみ)神社(天皇が流人となる逆さの身分)

更に、「饒速日(にぎはやひ)天皇」が無血の政権譲渡をされ、生きながらの喪人の身を三十数名の家臣と共にお住まいになられた、尾張中国(なかくに)<中島郡>の神戸邑(かんべむら)にお越しになられ、天皇家を代表され「饒速日(にぎはやひ)天皇」へのお詫びの証(あかし)のために、この地に天皇をお祀りする神社の建設を申し出られになれば、直ちに村民が挙(こぞ)って神社の建設に当たり「逆見神社」が出来上がりました。村人たちは勿論のこと近郷近在の人々と共に、「饒速日(にぎはやひ)天皇」を不遇の仁(ひと)<蛭児>と哀れみ見守っていた人々が夷(えびす)さまが帰ってお見えになったと喜び、夜を徹して踊り明かしたと伝えられています。今伊勢の「酒見神社」と呼ばれて今日に至っております。

 

 

 

 

〇日神姉子神社(ひかみあねこじんじゃ)<氷上姉子神社>

垂仁天皇(十一代天皇)から景行天皇(十二代天皇)の御代にかけて、「伊勢の神」の天津祝詞が消されて、筑紫(つくし)の日向(ひゅうが)の阿波岐原の国津祝詞が與謝宮(よさのみや)内宮で唱えられた為、垂仁天皇二十六年に、「伊勢の神」が居辛くなり、日神山にお移りになりました。

その後、伊勢神宮に奉斎されていた「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」も、倭姫命(やまとひめのみこと)」が日本長尊(やまとたけるのみこと)」にお渡しになり、日神山の「伊勢の神」の許(もと)へ運ばれていました。

「持統天皇」は天皇家を代表されて「日神山」にお出になり、神殿の拝禮所に案内され、身も心も振るわせになり詫び伏されたので御座いました。尾張一族の支えでありました「建稲種尊(たけいなだねのみこと)」と頼みのお方「日本長尊(やまとたけるのみこと)」を神武派の策略により葬り消されてしまいました。この日ノ本の国を背負って立ち、人々を導いてゆくはずでありました勇者を失ったことは大きな痛手となりました。こうした尾張の「宮簀媛命(みやずひめのみこと)」の御意志(みこころ)を想うと耐えられず「宮簀媛命(みやずひめのみこと)」の控え所館跡に泣き崩れておしまいになりました。

「日本長尊(やまとたけるのみこと)」が内々峠(うつつとうげ)の軍儀の中に「民草和氣(くさなぎ)の魂」を投げ込まれた事が、生命(いのち)を掛けて尾張族を守り救う事となり、都にはもう生きては還れぬ身の上となり、死を覚悟された上でのお別れに、「宮簀媛命(みやずひめのみこと)」のもとへお出でになられたその時の事を、同じ女性である「持統天皇」の魂に憑かれた「宮簀媛命(みやずひめのみこと)」がお伝えになりました。

「日本長尊(やまとたけるのみこと)」の生命(いのち)・魂を、子を産むための女の体魂が一夜の夢に掛けられた。しかしその女の願いも空しく姉子となられ、巫女の身を責めて責め攻め抜かれてお詫びになり、死を覚悟されて尊のもとへ逝こうとされたその時に、「初代」伊邪那身命がお出ましになり、『今、生命(いのち)を捨てるは安けれど、その後誰が「日神山」尾張族を守っていくのか。「日本長尊(やまとたけるのみこと)」が尾張族を見捨てるために生命(いのち)を掛けたと言うのですか。尊の愛(魂)を温め日神山を守り通すために、今日から「姉子宮簀媛命(みやずひめのみこと)」を名乗り立派に「民草和氣(くさなぎ)の剣」を守り通すのです。』との御詞(ことば)に、止まらぬ涙を流し離し、自害を踏み止まれ、日神山の「伊勢の神」に生涯を尽くされ「民草和氣(くさなぎ)の剣」を守り通されたので御座いました。

「持統天皇」は尾張族へお詫びのために神社をお建てになり「日神姉子(ひかみあねこ)神社」とお呼びになりました。

この神社建設に当たってはどれ程の御神霊が応援されたことでありましょう。「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」を「天皇の継承の御剣」にされた事により、この「日神姉子神社」の御神理氣は、日本の国と同じく世界を左右するほどの大きな神理氣が罹(かか)っているそうで御座います。後に「日本長尊(やまとたけるのみこと)」の皇子・仲哀天皇(十四代天皇)が、「宮簀媛命(みやずひめのみこと)」の控え所館跡に、御陵をお造りになりました。

そこへ「持統天皇」が、お出になる途中の崖の所から、遥か向こうの山並(御嶽山・白山・伊吹山)を御覧になって詠まれた御歌

 

春すぎて夏来にけらし白妙の  衣ほすてふ天の香具山

 

の歌が明日香の板蓋(ぶき)宮で詠まれたと言われていますのは、「御難賛助の御誓約(ごなんさんじょのうけひ)」の神魂の打ち込まれた「剣」を納めてある「日神山」の地を表に出す事が出来なかったからでしょう。

 

 

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〇幡頭(はず)神社

無念の最期を遂げられた尾張族の旗頭(はたがしら)「建稲種命(たけいなだねのみこと)」は、我が亡骸(なきがら)は伊勢志摩の神筋山(かみじやま)の麓、與謝宮内宮(よさのみやないくう)を一望する三河国の幡豆岬宮崎の山腹に葬るよう遺言された為、そのお言葉に従いお祀りされました。その墓所にお立ちになられた「持統天皇」が、遥かに伊勢の海をご覧になると、近くから佐久島・日間賀島・篠島と続き、伊良湖岬に神島が手に取るように浮かんで見え、その奥に神筋山が霞んで見え、その麓に與謝宮内宮が在りました。これ程までに神霊地を知りえていた事は、「伊勢の神」への厚き信仰の現れであり、このような武将を闇討ちにして葬り捨てた過ちは許されず、どうお詫びすれば良いのかを深慮される天皇の胸の内に、伊勢の神がお出ましになられ、『まず、「建稲種尊(たけいなだねのみこと)」を真中にお祀りし、その東(左)に「伊勢の神」をお祀りして、西(右)に「熊野大斎原(おおゆのはら)の神霊」をお祀りし、大自然の元理をもって、天皇家がしっかりと「建稲種尊(たけいなだねのみこと)」をお祀りする事を忘れてはならぬのです。天皇家を代表してのお詫びのための巡幸は、伊勢の内宮から始まり内宮に納めるこの道こそ、大和神魂(やまとしんこん)・民草和氣(くさなぎ)の倫理(みち)・国津神魂と天津神魂とを結ぶ一輪の神仕組みであるのです。この度の神祀りの頂頭に立つこの神社を「幡頭(はず)神社」と定め、伊勢神宮・與謝宮内宮(よさのみやないくう)に直行して還るがよい。』と仰せになりました。

そこで天皇は直ちに、尾張族の長や地元の代表の人々と協議されたので御座いました。その後幡頭(はず)神社の造営も進み御遷宮に参拝なさいました持統天皇は、この神社の造営に当たり、地元をよくまとめよく働かれた責任者をお呼びになり、その苦労を労われて、これからは「黒野」を名乗るがよいと仰せになりました。

現在「幡頭(はず)神社」の宮司をお務めの黒野さまは、その御子孫で御座います。

 

 

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〇石巻山

石巻山に行かれた「持統天皇」は、天皇継承に争いが起きないように皇太子だけ残されて、後の皇子たちを三河の尾張族にお預けになりました。しかしご自分の子供以外を皆殺にしたとか海に流したとか伝えられ、その岬を伊良子岬(いらんこみさき)と名付けるなどしましたが、これらも「持統天皇」を取り巻く権力者たちが、天皇のなさった神へのお詫びの事をひた隠しにして、悪者に仕立てようとしたものでした。天皇はお詫びの旅からお帰りになられた後も、明日香の板蓋宮(いたふさぐう)から吉野(大海人皇子が住まわれていた所)に三十四度もお籠りになり、「生命継承権憲邪」さまにお許しを願われたので御座いました。

 

 

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4.大仏について

この頃、仏教を隠れ蓑として逃れていた丹生家の人々は、力を合わせて徐々に立ち上がって来るのでありました。大仏が造られたのもこの頃で、宇宙産(うちゅう)十三示元津(じげんかい)より阿弥生産(うみ)出された、植物・動物・人間の三位一体の遺伝子を、あのような大きな仏さまで現しました。(三大太元帥明王 さんだいだいげんすいみょうおう)

中国には、生命を生産(うみ)出した十三示元津(じげんかい)を、十三段階の屋根を造って現わし、そこより生産(うみ)出された遺伝子を大仏のお姿で現わしており、七十メートルもあるそうで御座います。これが日本に伝わって来て、奈良の大仏を造ることになりました。

 

 

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役小角(えんのおずぬ)と創根ケ峯(あおねがみね)の破壊

1.役小角(葛木丹生家)

賀茂役君(かものえだちのきみ)と言われていました「役小角」は、丹生家筆頭の賀茂族で、現在の葛城山の辺りを中心に金剛山(葛木山であった)・信貴山・生駒に所領地があり、この辺りに広範囲に住み暮らしていました。

丹生家が大丹生家(天皇家)を支え、志合わせ・慶びを繁々と茂らせていく仕組みの中心が賀茂族であり、大丹生童児さまが吉野山にお祀りされた「三体の生命継承権憲邪」さまを、丹生家が交代でお祀りするために造られた「吉野の十八郷(ごう)」を束ねてお出でになりました。

「小角(おずぬ)」は童児さまが修行を行った山々を巡って行かれ、大峰山系を行場として「大峰七五靡(なびき)」を開設されました。吉野から始まり最後が熊野「大斎原(おおゆのはら)」で、ここは皇祖皇宗の御陵となっており、この畏れ多い方々の御霊魂(みたま)所へ入る前に、玉置神社で最後の行をして、穢れた魂はそこへ置いて無となって「大斎原(おおゆのはら)」へ入るという道順となっているそうで御座います。

そして「小角」は大峰山に「尾頭(おず)天皇」(尾張の頭の速素佐之男尊)をお祀りし、弥山(みせん)に「天河辨天」(初代・伊邪那身命)を勧請されました。

神武権力者にとりましては、建国の時を瓊々杵尊(ににぎのみこと)の降臨としている以上、吉野山で人祖からの神祀りをしている賀茂一族を放置できず、体裁の融合をしては折あらばと狙っておりました。しかし天武天皇が「小角(おずぬ)」をうまく捕らえて伊豆嶋に配流したため、早速、賀茂族を京都の暗間山(鞍馬山)の南に部落として幽閉してしまいました。こうして賀茂族の始末が着いたので、そろそろ「小角(おずぬ)」も赦免しても良い事になり、帰って見ると、誇り高き丹生家の影は消え、「創根ケ峯(あおねがみね)の三津の霊石」は跡形もなく始末されていました。「小角(おずぬ)」は不徳の致すところと涙され、山上ケ岳の山頂で天津(てんかい)へ向かい「もう生きる望みがなくなりました。どうか天津にお迎え下さい。」と涙を浮かべて神にお縋(すが)りになりました。するとその時、天津から今にも飛び出そうとする「大丹生童児」さまのお姿を観得されたので御座いました。「小角(おずぬ)」はそのお姿を瞼に焼き付けて吉野山にお帰りになり、桜の大木に「金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)を彫り上げたので御座います。そして、破壊された三津の霊石を横に並べていけないのなら楯に重ねればよいとおっしゃって、三位一体の伊勢(いせい)<異性>の姿を、生命(いのち)を生産(うみ)出す営みによって生命の永遠の弥栄を願う「聖天(しょうてん)」さんとして山の中にお祀りされました。現在は桜本坊に移されて、秘仏として毎年九月三十日の二十四時を過ぎると同時に、御開帳されているそうで御座います。

こうした権力の横行はいつまでも続くはずもなく、生命生産(うみ)出しのご神理氣「八和幡之大神」をお祀りする人祖を消してしまった罪は大きく、天皇は病に臥し、妻であります持統天皇は神へのお詫びに生涯を捧げたので御座います。

このような事から長い歴史の中で、正統天皇(大丹生家・神徳による政の出来る天皇)の流れの方々を無視することは出来ず、全体の和を保つために係りを持っていったのでした。

嵯峨天皇が都を京都にお移しになる時にも、丹生家の方々と和を持たなけば移せないため、その和睦の中で辛うじて与えられたお役目が、天皇が崩御遊ばされた時「葱花輦(そうかれん)」を担ぐお役で御座いました。昭和天皇の「大葬の礼」の時にも「賀茂族」の方が少し担いで形をとられ、後は自衛隊の方々で担がれたそれで御座います。

 

 

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2.吉野水分神社(みくまりじんじゃ)

創根ケ峯(あおねがみね)の三津の霊石を山の下へ下へと降ろさせたのですが、そのままのお姿では祀る事が許されず、現在の水分(みくまり)の神に変えてやっと許されたので御座いました。そこで「吉野十八郷(ごう)の丹生家」の方々が、精根込めてお造りになりましたのがこの「水分神社(みくまりじんじゃ)」で御座います。

山の崖のほんのわずかしかない土地に八幡造りのお社を建て、天武天皇に気付かれぬように生命誕生の天津(てんかい)の仕組みを、敷地全体に表わされ、三体の生命継承権憲邪さまは、三段の階段で現わされたので御座いました。この「水分(みくまり)」とは水を分けるのではなく、身を分けてこの世に誕生するという意味が含まれているそうで御座います。

 

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3.世尊寺(せそんじ)

水分神社から少し離れた所に「世尊寺(せそんじ)」の跡があります。ここには三津の霊石を元の形ではなく縦に重ねて「人丸塚」としてお祀りされています。これは「人生まるる塚」という意味を秘めていて、「生命継承権憲邪」さまの神霊理氣を尊ぶ心がなくなれば、この生命界は廃れていく事を伝えており、この世を尊ぶ寺「世尊寺(せそんじ)」として建てられたそうで御座います。

 

 

 

4.吉野の三津(つ)の丹生神社

創根ケ峯(あおねがみね)の神祀りは取り払われたのですが、丹生家の方々は何としても伝え遺そうと、「植物の生命継承権憲邪」さまを「丹生川上上社(にゅうかわかみかみしゃ)」にお祀りし、「動物の生命継承権憲邪」さまを「丹生川上下社(にゅうかわかみしもしゃ)」に、そして「人間の生命継承権憲邪」さまを「丹生川上中社(にゅうかわかみなかしゃ)」にお祀りされて今日まで遺されて来ました。しかしこれが何であるのか解らなくなっているので御座います。

 

 

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5.報恩大師(ほうおんたいし)

創根ケ峯(あおねがみね)を少し下った所に「宝塔院跡(ほうとういんあと)があります。ここは「報恩大師(ほうおんたいし)」(岡山市芳賀に誕生)が、天武天皇によって排除された三体の生命継承権憲邪さまを仏教的にお祀りされました。吉野金峯山(きんぷせん)が寺院化していったのはこの頃のようで御座います。そしてこの蔵王権現のお力で、孝謙天皇の病を加持された功により報恩の名を賜りました。しかしその後は弾圧を受けて岡山に帰郷され、沢山のお寺を開創なさいました。竜王山神宮寺・最上稲荷山妙教寺・金山寺・日応寺・藤戸寺・瑜伽寺・大和小島寺などで住職を勤められて大和小島寺にて七十八才で遷化なさいました。

 

 

 

 

 

6.葛木丹生家(かつらぎにゅうけ)

畿内の葛木地方に赴任された丹生家十八家の内の名族で、賀茂一族の中でも特別な役を受け持っていた家系で御座いました。

この地方に在ります「高天彦神社(たかあまひこじんじゃ)」の本殿には、「三位の生命継承権憲邪」がお祀りされていました。そしてその脇に小さなお社が三社ありその中の一社が「三十八社」となっていました。人祖の御子の人数をこのようにして遺されていました。このお社は元は高い所に在りましたが、創根ケ峯(あおねがみね)の神祀りが破壊された頃、ここも潰されて現在の場所に移されたようです。

また、この神社には、丹生家の執念とも言うべき逸話が御座います。

天武天皇がこの神社を壊すように命じたのですが、丹生家が受け継いで来た大切な神社を、そう易々と壊す訳にもいかず躊躇していましたが、とうとう破壊されてしまいました。しかし宮司さまがまた再建されたため、ついに打ち首になってしまいました。ところがこの時、宮司さまは別の方と摩り替っており、道の奥に逃れて行かれたので御座いました。この神社にお墓があるのですが、これは身替わりになり処刑されたお方のもので、宮司さまのお墓は陸奥(むつ)にあるそうで御座います。名前も残されており、骨のDNAの鑑定の結果、葛木丹生家の御子孫と一致したそうで御座います。

この地方は、雄略天皇(二十一代天皇)の頃、焼き討ちに遭い、その痕跡が遺されています。神武天皇を初代として来た権力者にとりましては、それ以前の歴史を出して生命生産(うみ)出しの神祀りをされては困る為、こうした惨(むご)い仕打ちをしたのでした。

また土蜘蛛(つちぐも)」という言葉が遺されていますが、これも天武天皇の大弾圧によって殺され葬られた人々のことで、丹生家のお方の名前で葬る訳にはいかず、「土蜘蛛」として葬ったとしたので御座いました。

 

 

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7.十七弁の菊の御紋

蝦夷の人達が、十七弁の菊の御紋章をお持ちのようなのですが、これは丹生家十八家の印でありました。菊の花の中央が丹生家筆頭の家柄を表し、後の十七家を花弁で表したので御座いました。補陀落信仰(ふだらくしんこう)によって、丹生家の方々は関東に逃れて行き、その御子孫が関東以北に延びて行かれました。この方々が、丹生家の正統であるということを遺すために、今日まで伝えておられるそうで御座います。

大丹生家の菊の御紋章が十八弁で、丹生家の御紋章は十七弁、今日の天皇家の菊の御紋章は、御神徳でもって大和を建国なさいました天照(あまてる)天皇と速素佐之男尊の御霊魂を外されて十六弁としてしまいました。権力を象徴する御紋となっております。

 

 

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泰澄大師(たいちょうたいし)

越後国麻生津(あそうず)<現在の福井県三十八社町・現在の泰澄寺>にお生まれになられた泰澄大師は、役小角が流罪になった頃、福井県の丹生山地の「越知山(おちざん)」で修行をされていました。大師は吉野の創根ケ峯(あおねがみね)の神祀りが破壊された事に心を痛められ、福井県上吉野に三体の「生命継承権憲邪」さまの写しを「三大蔵王権現(さんだいざおうごんげん)」としてお祀りなさいました。そして丹生家十八家の内の七家を越前に移され、吉野の創根ケ峯の神祀りを仏教的に再興されたので御座いました。

日本仏教の仏さまは常に三体がお祀りされており、古いお寺などに遺されている三尊の仏さまは、日出ずる丹ノ本(にのもと)の国の三体の「生命継承権憲邪」さまを現わされているそうで御座います。

そして七百十八年、大師は太陽から生命原子の「丹(に)」と、太陽の光の際限津(さいげんかい)にあります宇宙産迂迦(うちゅううが)で誕生する「丹生丹生魂遺伝子(にしょうにゅうこんいでんし)」と、この生命界地球で誕生する「生命遺伝子」を「三所大権現(さんしょだいごんげん)」として「越知山(おちざん)」において感得なさいました。大師は山頂に社堂を建立され、これらを仏像にして「越知山三所大権現」と称してお祀りになりました。

これが、越知神社の初まりだそうで御座います。この「三所権現」の御本地仏は「不動明王」さまで、自ら彫んで安置なさいました。現在「大谷寺(おおたんじ)」に「三所権現」の仏さまが遺されております。

阿弥陀如来坐像(日輪太陽の生命原子の丹)

十一面千手観音菩薩坐像(産土之地球の生命)

聖観世音菩薩坐像(宇宙迂迦の霊命)

また霊峰白山を開き「白山菊理媛(はくさんきくりひめ)」を観得したと伝えらえています。このお方は「初代」伊邪那身命さまで御座います。そして、白山信仰を中央に広めていったそうで御座います。

また全国的に疱瘡が流行し、その病気平癒の祈願をして疫病を終息された事から、天皇より「泰澄(たいちょう)」の尊号を賜りました。

福井県丹生郡越前町にあります「福通寺」には、泰澄大師が彫られた、高さ百八十センチ位の「十一面千手観世音菩薩」が安置されています。この仏さまの眉間に差し込んだ朝日の光が、まるで本物の朝日のように光輝いたことから、この山を朝日山と呼び、その郷の村を朝日村と呼ぶようになったそうで御座います。

大師が彫られた「十一面千手観世音菩薩」には、この宇宙産(うちゅう)十三示元津(じげんかい)の御神理氣を通して、人類として最初に御誕生になられた人祖「初代」伊邪那岐尊さまと伊邪那伊身命さまのお二方と、その御子の三十八名が刻み込まれております。

まず十三示元津の中の「日輪太陽津」の二津の示元(じげん)を仏さまの面(おも)で現わし、人祖「初代」伊邪那岐尊さまを、十一面千手観世音菩薩の胸で合掌した両手で現わされ、「初代」伊邪那身命さまを、この仏さまの丹田の前で組み合わせた両手の指で現わされました。そして、仏さまの右側の十九臀(び)で十九人の男の御子を現わし、左側の十九臀で十九人の女の御子を現わして、合計三十八臀で十九組の夫婦を現されたので御座いました。

この大切な人類の大祖人・御先祖のお姿を、なんとしても遺そうと観音さまのお姿に謎かけて、一刀一刀願いを込めて刻まれたのでした。

太古の神祀りを消して、丹生家の方々を排撃した歴史を元に戻して、日本人の「日本霊魂(やまとだましい)」を復活してゆく、その中心となる仏さまがこの「十一面千手観世音菩薩」さまで御座います。故にこの仏さまをお祀りし、全てに感謝することは、先祖供養となることで御座いましょう。

泰澄大師の遺されたこの仏さまは、後の弘法大師の「三大太元帥明王像(さんだいだいげんすいみょうおうぞう)に大きな影響を与えています。

天皇を利用するだけの権力者にとりましては、人祖を出そうとされる泰澄大師は邪魔になり、その後は追われる身となってゆくのですが神の御加護により生命(いのち)を奪われる事はなく八十六才で遷化なさいました。日本の仏教の基をお作りになられた大師の影響は大きく、行基は泰澄大師から仏像の造り方を学ばれたそうで御座います。

「千手」とは千種(血種)であり遺伝子を表す。

「地蔵」とは血臓でありこれも遺伝子を表す。

 

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鑑真和上(がんじんわじょう)

 

丹生家の主だった方々が僧侶・大師になられて、三尊をお祀りする日本仏教を立ち上げて来た為、神武にとりましてはそうした事に脅威を感じるようになり、その動きに圧力を掛けるために「鑑真和上」を中国から招いたのでした。そして、日本仏教は偽りであるとさせて、丹生家の僧侶たちを追放しようとしました。

「鑑真和上」は、日本に行ってみたいと常々思ってお出でになりました。七百三十五年来朝されたのですが、日本の仏教を知れば知るほど、その素晴らしさに驚き、これこそ本物であるという霊魂(たましい)になられて、ついに朝廷の意に添わなくなってしまい、数年でこのお役を解かれ追放されたので御座いました。

 

 

 

 

坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)

坂上田村麻呂は、征夷大将軍となり(七百二十七)、蝦夷(えみし)を平定してゆく中、「私が必ず天皇に取り持つから。」と言って、丹生家の人々(蝦 えみし 夷 えびす)を都に連れて来て、悉(ことごと)く惨殺してしまいました。

この御霊魂を慰めたお寺が、福井県小浜の「明通寺(みょうつうじ)」で御座います。

 

〇桃太郎の鬼退治

鬼とは、「大丹(おに)生」で、太陽から産み出された「丹(に)」が、霊命の丹生丹生魂遺伝子(にしょうにゅうこんいでんし)となり、生命界地球において生命遺伝子として誕生された人祖の嫡子を「大丹生家」とし、後の御子を「丹生家」となさいました。今から約七百二十万年前の事ですが、約二千七百年前の神武天皇を初代の天皇とするために、丹生家の人々を徹底的に弾圧してゆき、社会から抹殺していった哀しい歴史がありました。これが「大丹(おに)生」退治として遺されました。関東以北に住み暮らしていた丹生家の方々は、蝦夷(平安時代以前は蝦夷とは言わず、えみし・えびすと言っていた)征伐として、隼人族は熊襲征伐として、丹生家を弾圧してゆきました。

桃太郎の鬼退治は、かつて丹生家が住んでいた地方に遺っています。神武権力者たちが、丹生家の人々を旨く騙したり、手懐(てなず)けたりして利用した事を、犬・猿・きじに団子を与えて家来にしていった事で表現されているのでしょう。岡山の桃太郎伝説は有名ですが、岡山は西の地方の丹生家の中心地でありました。そのため吉備の国を平定するために、四道将軍のお一人の吉備津彦尊が派遣されたと伝えられています。

 

 

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先頭へ

弘法大師・空海

1.空海

「空海」は讃岐の国にお生まれになり、父は佐伯氏、神武権力に征服されました蝦夷(丹生家)で御座います。天才でありました「空海」はお役人を養成する大学での教育には、宗教哲学の神髄がない為、突如お姿を消してしまわれました。その後七年間行方知れずとなったと言われています。実はこの間「空海」は「伊勢生成(いせいいなり)の神」を学んでおられたそうで御座います。垂仁天皇(第十一代)の頃に「伊勢の神」までが放置された為、丹生家の方々がその代わりとして、大和橿原の神武派の中心地を囲む三ヶ所に「三宝荒神(さんぽうこうじん)」をお祀りされました。この三ヶ所を巡り、ここが丹生家の方々の情報交換の場となり、修験の道とされました。「空海」はここを丹生家の方々と共に廻り、吉野の金峯山(きんぷせん)・大峰山などにもお入りになり、雑密の中で宇宙産(うちゅう)の生命誕生の神仕組みを学んでお出でになりました。

 

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2.霊仙三蔵(れいせんさんぞう)の一念

「人祖の御霊魂所(みたまどころ)」であります霊仙山の麓で、父が霊仙山の頂で日輪太陽に祈願され、授かった御子が「霊仙(れいせん)」で御座います。

天武天皇の古事記の編纂により太古の歴史が消されてしまった為、「霊仙」はなんとしても、これを伝え遺さねばと発願されました。このような想いを持ちつつ、それでは仏教とは一体どのような教えであるのか、確かめるため入唐なさいました。そして数年間、インド仏教の神髄を伝える般若三蔵より梵語を学んでおられた時、唐の朝廷でその当時より百五十年以上前に、インド半島の先の島より献上された古い凡ぎょうが発見され、それを翻訳する八名の中の一人として選ばれ、その後は「霊仙」が中心となり完成させていかれました。仏教哲学の基として、人類の祖が何処なのかを明らかにしなければ何も始まらず、「霊仙」はこの翻訳事業の中で、インド仏教の基が日本から流れて来ている事を悟られ、生命生産(うみ)出しの神と、そこよりお生産(うま)れになりました人祖「初代」伊邪那岐尊・伊邪那身命の、我が祖国の重大さを異国の地で知ったので御座いました。しかしもう時既に遅く、唐の朝廷の一員となり、内部を全て知った「霊仙」を日本に帰すはずもなく、「霊仙」は逸(はや)る想いを手紙にして日本に送ったので御座いました。「石山寺」に「霊仙」の手紙が遺されております。こうした中で、この事実を「恵果(けいか)にお伝えになりました。(石山寺に「噫(ああ) 霊仙三蔵」と彫られた石碑がある)

 

 

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3.恵果(けいか)との出会い

「空海」は三十路を過ぎて入唐され、長安の清龍寺に仏教の深奥を一身に受け継いだ「恵果阿闍梨(けいかあじゃり)」が、「空海」が来られるのを待ってお出でになりました。「恵果」は「霊仙三蔵(れいせんさんぞう)」から人祖が三十八名の御子をお生産(うみ)になり、この地球生命界を護り治めてゆく大法師として、神が誘(いざな)<伊邪那>われた方である事を「太元帥明王(だいげんすいみょうおう)」として知ったので御座いました。しかしそのような事は国家機密であり、大国の唐こそが祖であるとする朝廷に従わねば命はなく、「恵果」にとってこの遣る方無い想いを一掃させたのが「空海」との出会いでありました。

ご自身の寿命を悟られていた「恵果」は、「空海」に全てを託し、日本に持ち帰らせたので御座いました。「空海」は今まで山岳修行をしながら学んでいた事が、これであったかとお気付きになりました。「空海」は仏教の神髄を学ぶためならインドまで行くお心づもりでしたが、一年半でお帰りになられた理由がここに有りました。日本が人祖の国である事を皆に伝えれば、きっと両手を上げて喜ぶであろと想われ、早く帰って高野山に大伽藍(だいがらん)を建立しようと決意なさいました。

 

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4.仏教の集大成としての真言密教

しかしながら建立に入られますと、周囲からの反感が出てきて思うようにはいかず、何故こうなのかとお考えになられた時、神武王朝政治が如何なるものであるかを思い知らされたので御座いました。今までの政府の遣唐使として遣われている身分であり、その権力の中に居たために、あまり権力としては感じてお出でにならず、人祖を出そうとした時、人祖は高千穂の峰に天降った「瓊々杵尊(ににぎのみこと)」であることに固執していることを痛感されたので御座いました。しかしこの重要な事を捨ててしまう訳にもいかない。その時に「空海」をお救いになりましたのが「三宝荒神(さんぽうこうじん)」で御座いました。事実を伏せて「密教」の守護寺として建設すればよいと諭されたのでした。日本が人祖の国である事を秘密にして教えたとして、ここに密教が起き、高野山金剛寺を密教の道場とされたので御座いました。嵯峨天皇、藤原冬嗣などは空海のよき理解者となられ、天皇は「東寺」を「空海」にお与えになりました。

 

 

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5.大日如来

「空海」は吉野へ行かれ、山上ケ岳で修行された事があり、生命をせいさん(うみ)出す宇宙産(うちゅう)の仕組みを会得さていました。

生命を誕生させるために欠くべからざる絶対なる五神

①日輪太陽津神(にんちりんたいようかいしん)<太陽>

②宇宙産迂迦神(うちゅううがしん)<丹生津>

③天生零迦児神(あうむかごのかみ)<血種遺伝子>

④月暦見満引神(つきよみみちびきのかみ)<月>

⑤産土之地球神(うぶすなのちきゅうしん)<地球>

 

このままではお祀りできない為、中心を大日如来(日輪太陽津神)とされ、他の四体を仏像でお祀りなさいました。

 

 

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6.宇宙産曼陀羅(うちゅうまんだら)に秘められた真相

高野山の霊宝館の中に掲げられていた国宝の「宇宙産曼陀羅」の前にて、「空海」が曼陀羅に秘められた真相を、情景として写し出し、加古氏にお見せになられました。

その曼陀羅の中では、何千何万何億という数限りない仏さまが、次々と真っ赤に燃えたぎる太陽の中に燃え尽きてゆき、ブクブクとしたバクテリアのような真っ赤な血の海から、次々と誕生して来る生命生物が写し出されてきました。こうした、情景から、この宇宙曼陀羅の世界は、大宇宙産(うちゅう)の生命誕生の大ドラマを図式化して顕されたものであると、加古氏は認識されていらっしゃいます。

 

 

 

7.両部曼陀羅

宇宙産(うちゅう)十三示元津(じげんかい)の中心であり、生命遺伝子の源となる丹(に)を創り出される「大日如来」を中心に、全ての生命がこの生命界地球に誕生している事を「両部曼陀羅」で現わされました。

日輪太陽津(にちりんたいようかい)を「金剛界」(雄蕊・雄・男)の施津(せかい)

宇宙産迂迦津(うちゅううがかい)を「胎蔵界」(雌蕊・雌・女)の施津(せかい)

このようにして生命が誕生し、最初にお生産(うま)れになりました人間の元生産親(もとうみおや)さま、すなわち「生命継承権憲邪」さまを空海は「十八面三十六臀の太元帥明王」として現わされたので御座いました。

 

 

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8.不動明王と愛染明王

愛知県知多郡美浜町野間東島に在ります「野間大坊」に空海が描かれた「不動明王像」と「愛染明王像」が納められています。

「不動明王」は、生命を御創造(おつくり)になるこの十三示元の中心に在ります「日輪太陽津(にちりんたいようかい)の御神理氣」熱田の神を現わされ、「愛染明王」は、宇宙産迂迦の施津(せかい)で霊命遺伝子が誕生する「菊理<氣繰(きくり)・括理(くくり)>の御神理氣」を現わされました。「不動明王」の後背の火炎の中には、九体の火の鳥が描かれています。最上部に描かれた三体の火の鳥は植物・動物・人間の「生命原子」の丹(に)が、真光(まひかり)と芒種(ぼうしゅ)のエネルギーにより寿命を戴いたお姿。左右に描かれた六体の火の鳥は、宇宙産迂迦(うちゅううが)の施津(せかい)で括られて誕生した植物・動物・人間の「霊命遺伝子」のお姿と生命界地球に誕生した植物・動物・人間の「生命遺伝子」のお姿を現わされました。

「不動明王」が手に持つ「剣」は、不戦の誓いを表す「民草和氣(くさなぎ)の剣」で御座います。「不動」とは、人間の如何なる知恵・力をもってしても、動かす事の出来ない天地の理、即ち不動なり、このように神がお知らせくださいました。

 

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9.四国八十八ケ所に秘められた業(わざ)

太元帥明王(だいげんすいみょうおう)<生命継承権憲邪>さまより受け継がれて来ました日本の大丹生天皇(おにゅうすめらぎ)が、完全に封殺されましたのが天武天皇(六百三十一~六百八十六)の時代で御座いました。大丹生天皇(おにゅうすめらぎ)は員弁(いなべ)から四国へ、他の丹生家の人々は松江にと逃れて行かれました。松江に逃れた人々は焼き討ちに遭ってしまいましたが、四国へ逃れてた天皇はなんとしてもお護りしなければと、四国の周囲に丹生家の修験者を巡らせて外敵を水際で防ぎ、情報を交換して時の情勢を把握していました。

こうして出来ましたのが「八十八ケ所の霊場」で御座います。八十八とは米という字となり、十は天津神(あまつかみ)と国津神(くにつかみ)、そして東西南北どの方角から見ても八神となります。すなわち「天津神と国津神」によって、この生命界に最初に御誕生になられた太元帥明王(生命継承権憲邪)の血統を嗣がれた天皇を、四方から「八和幡之大神(やわたのおかみ)」でお護りし、各札所を巡らせて擁護していかれました。こうして「八和幡之大神」に御迦護を願い、陰ながら御護りする砦(とりで)としての札所が八十八ケ所で御座います。これが「弘法大師」の故郷四国の地に遺された八十八ケ所の神髄です。

故に、四国には天皇家の「錦<丹紫(にしき)>の御旗(みはた)」や、太古の神祀り「五社三門」が遺されていたので御座いました。また三木家の麻織物も、天皇(すめらぎ)と共に四国へ逃れた方々が、天皇が御即位の大礼の時にお召しになる束帯を織るための麻の栽培を、絶やすことなく護ってこられたので御座いました。

その後、世の情勢も少しずつ変化してゆき、圧力も緩和されて来た為、四国にお出になりました大丹生天皇(おにゅうすめらぎ)は、九州の隼人(はやと)族(丹生家)の地にお移りになりました。これが島津で御座います。「古事記」に書かれました「海幸彦」と「山幸彦」のお話は、この島津と隼人の確執を表したものであるそうで御座います。

 

 

 

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10.秦氏(はたし)

京都の伏見から太秦(うずまさ)にかけて、渡来人であります「秦氏」の領地がありました。その「秦氏」が帰化する時に、「空海」が仲立ちをされ、伏見山の峰の一番高い峰に「太陽神」を、次に「植物」「動物」をお祀りし、一番低い峰に人間をお祀りして「伊勢生成(いせいいなり)の神」となさいました。そしてこの神を「秦族」の氏神として参詣するようにお導きになり、日本に帰化した証(あかし)とされたので御座いました。しかし当時は「古事記」に則った神祀りでありました為、人祖を表に出せず「伊勢生成(いせいいなり)の神祀り」が出来なかった為、「生成(いなり)」を「稲荷(いなり)」としてお祀りしたので御座いました。

 

 

 

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11.丹朱

人祖が「天の意和戸(いわど)」をお出ましになる時、この生命界が永遠に弥栄(いやさか)であるよう「理(ことわり)」の施津(せかい)を司る人間として、この事を護り発展させてゆくよう神と約束なさいました。そしてこれを子々孫々に確と伝えくために、生命をお生産(うみ)出しになる絶対五神(太陽・丹生津・丹生遺伝子・月・地球)を「丹紫(にしき)の御旗(みはた)」に込めて伝えてゆく事を約束なさいました。この旗は五段になっていて朱と紫で交互に染められております。この旗を作る際に、丹生家の方々は丹朱が必要であった為、水銀を採る事をよくご存知でありました。これが仏教の伝来とともに、仏教をメッキしますのに水銀が必要となり、その水銀の採り方を皆に教えていました。そのため丹生族が急浮上し、水銀といえば丹生族となったので御座いました。

 

 

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12.弘法大師の御啓示

「空海」が入定される直前に、弟子たちに言い残した言葉がありました。『お釈迦さまの入滅後は神仏不在の世となった。遠い将来、「弥勒菩薩」さまが衆生を救うために下生(げしょう)される。その時は共に下生し姿を現わす』と仰いました。現在「弘法大師」は人祖「初代」伊邪那岐尊(人間の太元帥明王・生命継承権憲邪)と共に、そして多次元でお活動氣(はたらき)で御座います。

「今日ではすでに人祖がお出ましになり、生命の真実、日ノ本の国の真相が明かされたので、密教として秘密にする必要のない時代(とき)が来た事を伝えて欲しい」と仰っています。

 

 

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14.仏教の神髄

太古より日本に伝え遺されて来ました生命生産(うみ)出しの神々の真実は、神武勢力に支配されるようになりましてから正しく伝えられず、「聖徳太子」以降に導入されました仏教の中で、仏の姿を借りて秘かに伝え遺して来ました。その中でも「真言密教」は「空海」が生命生産(うみ)出しの神の世界を悩みに悩んだ結果、仏教の集大成として表わされました。神の施津(せかい)と仏の施津が別々に有るのではなく、「伊勢生成(いせいいなり)の神」の究極が日本の「真言密教」で御座いました。

故に、弥勒再下生なさいました今日では、それぞれが個別に伝えるのではなく、息津(おきつ)・湍津(たぎつ)・邊津(へつ)<三所大権現>の御神理氣をお伝えになる越前「越知山(おちざん)の大谷寺(おおたんじ)」と、丹生津(三大蔵王権現)の御神理氣をお伝えになる「吉野山の桜本坊」、そして生命界地球(三大太元帥明王)の御神理氣をお伝えになる「高野山の座主」、これらの方々が一津(つ)になられて、太古より日本に伝わる生命生産(うみ)出しの神の真実、この仏教の神髄を明らかにしていく時が来ていると神が仰せになりました。

 

 

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15.般若心経

「摩訶般若波羅密多心経」は、生命の生まれ変わりを願う神呪(じんしゅ)の施津(せかい)であると伺っております。

是大神呪(ぜだいじんしゅ)➡男女の性をお返しする

是大明呪(ぜだいみょうしゅ)植物・動物・人間をお返しする

是無上呪(ぜむじょうしゅ)➡生をお返しする

是無等等呪(ぜむとうとうしゅ)➡亢進寿命をお返しする

一切苦眞實不虚(いっさいくしんじつふこ)➡新たなる亢進状態を戴く

 

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16.平安四百年の平和の基を築く

藤原冬嗣により、空海は嵯峨天皇との繋がりを戴き、藤原冬嗣と空海の大きな関わりの中で育てられたのが、藤原良房で御座います。

天武天皇(第四十代)により権力政治になってしまったものを、和の政治に戻されたのが嵯峨天皇(第五十二代)・淳和天皇(第五十三代)を取り巻く冬嗣・空海・藤原良房たちで、平安四百年の平和の基を築かれたので御座いました。

 

 

 

17.太古の都=三八子(みやこ)を守った良房

五百年代に仏教が伝来し、奈良時代になりますと、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を皇位に就けようという程に仏教が全盛となり、ついに大丹生童児さまが修行なさいました暗間山から吉野にかけて、新羅に占領されてしまいました。次第に権力者も退廃的になってゆき、現在に遺されております高松塚古墳の壁画に描かれていますように、当時、朝鮮半島の王朝貴族たちが大勢入って来ておりましたが、その美しい女性達と興じていた事を表しているので御座います。そのような中、このままでは日本が新羅に占領されてしまうやもしれないと、非常に恐れてお出でになりました冬嗣・空海・良房は、日本の神道を守り、摂政の位に即かれました藤原良房は、伊勢から北伊勢(員弁)の線を一番大切になさいました。ここを抑えなければ日本の国は治まらないという事をよくご存知でいらっしゃいました。そのためこの員弁の地に重臣を置かれ、外国からの占領を免れる事が出来たので御座います。

 

 

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常暁(じょうぎょう)

空海の弟子でありました小栗栖(おぐるす)の「常暁(じょうぎょう)」は、空海が人祖をどうしても表に出す事が出来なかった為、何か良い手立てはないものかと、思案してお出でになりました。我が命に変えても「太元帥明王(だいげんすいみょうおう)」を日本に伝えねばならぬと言いながらも、異郷の土と帰した「霊仙三蔵(れいせんさんぞう)」の眠る地へ行けば、何か得られるのではないかと入唐(八百三十八年)を決意されました。そして、唐の地で「常暁」が師事された僧の所には、なんと「霊仙三蔵」の遺言や遺品が有りました。早速これらを日本へ持ち帰った「常暁」は、これらをどのようにして皆に伝えようかと苦慮なさいました。日本の歴史が神武天皇からと言う事はなんとしても避けたい。そこで、「常暁」は「秋篠寺」の井戸に映った「太元帥明王」のお姿として、人祖のお姿である事は強調せず、天皇家の御先祖として、、神武権力にも受け入れられる形で、公に出来るようお考えになりました。こうして人祖の御陵の地であります「小栗栖(おぐるす)」で、「太元帥明王」を最初に公開され、「秋篠寺」の閼伽井(あかさい)の井戸で感得した天皇家の御先祖として朝廷に献上されました。そして明治四年まで「天皇家の御本地仏」としてお祀りされて参りました。

徳川時代最後の天皇でありました「孝明天皇」(第百二十一代)は、神の意を貫かれる「與謝身(よさのみ)」天皇でありましたので、明治政府がこの天皇を亡き者にして、自分たちの意のままになる天皇を擁立しようとする策略を予見されていました。そこで天皇は、大切な「天皇家の御本地仏(太元帥明王)をそのような者たち(長州)には渡せないと仰いまして、「東寺」に預けて天皇家を遮断しておかれました。

近年までは、この「東寺」での「太元帥明王のお祭り」の日には、「秋篠寺」の井戸水を汲んでお召し列車で「東寺」まで運んで行事が行われていましたが、今は「東寺」の行事のみとなっているそうで御座います。また真言密教の「太元法」の中の「加持香水」の段では「秋篠寺」の井戸水しか使用できないそうで御座います。

 

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菅原道真 

1.天羽衣伝説

琵琶湖の北に余呉湖(よごこ)があり、「道真」はこの近くの下丹生(しもにゅう)でお生まれになりました「丹生家」出身のお方で御座います。太古の昔、この下丹生の北に在ります「七七頭ケ岳(ななななずがたけ)<名付ケ岳>」で大丹生童女さまが女の修行をなさいました。そのためか、この地には「天羽衣伝説」が遺されております。由緒正しき大丹生家・丹生家の血統であることは表に出せない為、天津(てんかい)より御降臨になれれたお方の御縁の地である事を天羽衣に秘めて遺されたので御座いました。「道真」がこうした人祖家の流れを受け継いでいることを表す為、下丹生の関係者が天如を娶(めと)って生まれた御子が「道真」であると言われきました。

 

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2.大宰府に左遷

醍醐天皇と藤原時平らの対立の中で、「道真」は謀(はか)られて左遷させられてしまいました。そして配所で亡くなられましたのが、延喜三年(九百三年)の事で御座いました。「道真」は何事にもはっきり物を言われるお方で、ややもすれば人の恨みを買ってしまうご性格で、あのような流罪となってしまわれました。「道真」の死後、次々と異変が起こり、「道真」の祟りと恐れられると同時に「道真」が丹生家の方であることが判り、朝廷が慌てふためいて「八和幡之大神(やわたのおおかみ)」の脅威を恐れ、早速、八棟造(やつむねづく)りの「北野天満宮」を造営したので御座いました。そして、各峯々に「八和幡之大神」の御降臨を賜り、「道真」の御霊魂(たましい)を鎮めたので御座います。こうした朝廷の手厚い対応により「道真」は「準天皇」に任ぜられました。

この事について、九州の「大宰府天満宮」に行けば、その証拠があると神より加古氏にお知らせがありました。そこで加古氏は九州にお出かけになり、天満宮の宮司様にお訊ねしたところ、「この神殿は、京都の御所の紫宸殿と同じ造りになっている。」と仰ったそうで御座います。こうした神殿に「道真」をお祀りしたという事は、正(まさ)しく準天皇に任ぜた証であると神が仰ったそうで御座います。

 

 

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3.通りゃんせ

こうして「道真」を「大正腑天神(だいしょうぶてんじん)の大神」とのつなぎ役とされて、「道真」を通して輪廻転生の施津(せかい)に願い出る。このような事から天神と言えば「道真」と言われるようになり、菅原天神が生まれました。

宇宙産十三示元津(うちゅうじゅうさんじげんがい)の輪廻転生の仕組みを御創造(おつくり)になられた「大正腑の神の御神理氣」を、私たちは「天神さま」とお呼びして参りました。「道真公」が準天皇となられて、天神さまへのお取り次ぎをされ、天津(てんかい)の輪廻転生の道にお導き下さる「通りゃんせ」という童歌は、こうした輪廻転生の示元を詩(うた)ったものと想われます。

 

通りゃんせ 通りゃんせ

ここはどこの細道じゃ  天神さまの細道じゃ

どうぞ通してくだしゃんせ 御用の無いもの通しゃせぬ

この子の七つのお祝いに お札を納めにまいります

行きはよいよい 帰りはこわい

こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ

 

「天神さまの細道じゃ」 宇宙産十三示元津の輪廻転生の道で、この世どのように生きたかを神が斟酌(しんしゃく)していかれる難関の道

「行きはよいよい 帰りはこわい」この世に生まれて来ると何でも出来るが、亡くなってからは、神が斟酌してからでなければ通れませんよと言う事ではないでしょうか。

 

 

 

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花山(かざん)天皇(第六十五代)

丹生家の方々は、天武天皇によって徹底的に追放されましたが、その中の主だった方は、仏教を隠れ蓑にして大師となられ、仏教の絶対的存在として民衆を引き付けて、大きな力を得ていかれました。そうした中で、ついに三重県名賀郡の「阿保丹生家(あぼにゅうけ)」より「村上天皇」が擁立されたので御座いました。この天皇は、「生命継承権憲邪」を貸與された人類の大祖人「初代」伊邪那岐尊の三十八名の御子直系の子孫でなければ、天皇を名乗ることは出来ないと仰せになりました。この御子孫を「南朝天皇」と申し上げ、大和国を征伐した権力者の象徴天皇を「北朝天皇」とお呼びして来ました。丹生家の方々は、吉野(創根ケ峯)を追放されて以来、表には出なかったのですが、次第に力を付けてこられて、双方の対立が起きようとしている事を「花山天皇」はとても憂慮なさってお出でになりました。

一方、吉野山では三津(みっつ)の神祀りが破壊された後、「徳道上人(六百五十六年播磨に生まれる)」というお方が、畿内に霊場をお造りになり、丹生家十八家(三十六名)の御霊魂鎮めをなさっておられました。「花山天皇」の御代には、もう誰もお詣りする人がいなくなっていました。そこで改めて、丹生家十八家(三十六名)の生命遺伝子を観音菩薩のお姿としてお祀りする霊場をお造りになりました。三十六観音では気づかれてしまう為、三十三観音とされ、番外の三ヶ所を加えて、遺伝子の源は、双方とも(南朝も北朝も)同じですから、仲良くやって行きましょうと、西国三十三観音霊場を再興なさいました。

 

 

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日蓮上人

日蓮上人の御啓示

加古氏が御自身の生魂でおありの「藤原良房」の墓所を尋ねて、京都の嵯峨野にお出かけになる前夜、「日蓮上人がお出ましになり、上人の説かれた教えの真意を、確かな者に伝えて欲しいと仰せになりました。上人は伊勢に行かれて神道を究められましたが、伊勢の神が権力者の神祀りとなっており、その無念さ故、民を苦しめる幕府に対して政治の誤りを激しく追及し、権力に媚びる僧侶を批判されたので御座いました。

『「伊勢生成(いせいいなり)の神」により戴いた生命を「知瑠恵(しるめぐみ)」に従って美事に花咲かせて神の源へ帰って逝く、この有り難い教えを受け、「南無妙法蓮華」を唱える者が、権力を推進する政党に与(く)みして、憲法第九条の改定に手を貸し、権力を推し進める一役を担うとは何という事か、如何にどう言葉を尽くしてもその説明が付かないであろう。そういう考え方をするように成ってから、どれほど多くの若者が結婚できなくなったか、それを詭弁で、今は多様化の時代だから何も結婚ばかりが幸せではないと言って逃れるが、この世に生まれて結婚がしたくない者がどこにいる。しかし、いろいろな諸情勢によってそれが非常に難しくなっている。今どれほど結婚しない者がいるか調べてみよ。そうすれば「南無妙法蓮華」という言葉が如何なる事かが解るであろう。』このように仰いました。

「日蓮上人」は貧しい者とともに歩かれ、その者たちに幸せを与えてやりたいと努力なさいました。全てが結婚をして、男と女の花を美事に咲かせる。そしてこの世に生命継承の一齣(こま)として生まれた大役を果たして喜んで死んで逝く。これが「日蓮上人」の御心で御座いました。

翌日、加古氏は嵯峨野にお出かけになり、京都の町をお車で走っておいでの時、神よりお知らせがありました。太秦の広隆寺の霊法館に直ぐ行き、「弥勒菩薩」さまの所へ行くように仰せになりました。急いでお行きになると「弥勒菩薩」さまが、「もう最前から貴方をお待ちしている方が、その後ろの千手観音の所でお待ちですから直ぐ千手観音の前に行きなさい」と仰いましたので、そちらに行かれると、そこには「釈尊」がお待ちで御座いました。黄色の衣をまとわれ「私は釈尊だ」と御自身から名告(なの)られ、「私は日本の十種神鳳(とくさしんぽう)・伊勢生成(いせいいなり)の神が神理氣であり姿が無く非常に皆に教え難いので、何か良い方法はないものかと考えた末に仏という姿を編み出した。」とお告げになりました

 

 

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先頭へ

南朝天皇

1.後醍醐天皇(第九十六代)

権力者に牛耳られてゆく「北朝天皇」では本当の庶民のための政(まつりごと)が行えない為、人祖より受け継がれた「大和霊魂(やまとだましい)」に基づく政を行う天皇を復権しようと立ち上がられたのが、「後醍醐天皇」で御座いました。しかし「建武の中興」と呼ばれる天皇親政を実施しましたが、半ばにして、ついに悲願の達成は成らず、真実の神器を携えて吉野に潜幸(せんこう)したものの、波瀾の生涯を閉じられました。

この天皇を支えられた「北畠親房(きたばたけちかふさ)」「楠木正成(くすのきまさしげ)」は、天皇を二度までも京都にお招きになり、協力する人々の統率としてお働きになりました。天皇は必ず京都に帰るとおっしゃって、仮の陵を天龍寺にお造りになっていました。

「楠木正成」は「葛木丹生家(かつらぎにゅうけ)」の方で御座いました。葛木丹生家は「雄略天皇(第二十一代)に滅ぼされ、土豪・土民になっていました。しかし「後醍醐天皇」の御代になって、今までの陰の身であった丹生家の人々が一斉に立ち上がり、「後醍醐天皇」に協力していかれました。その中の「楠木正成」は、無理やりに天皇を推し立てようとすると経済的にも苦しく、丹生家の中からも批判が出るようになった為、足利氏と和睦して丹生家の人々を説き伏せようとしましたが、断られ、「正成」が「葛木丹生家」であることが全ての人に知れて、湊川では負け戦になる事も解っており、もう逃れる所はなくここを最期とされました。

「北畠親房」は南朝天皇の正統性を「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」に著しておられます。しかし、権力の象徴天皇にせんとする権力者たちは、正統天皇が何であるかなど関係なく、力ずくで、ついに吉野山を封殺して、力と力の対決の「戦国時代」に突入して行きました。

 

 

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2.奥吉野に伝わる後南朝

御嵯峨天皇(第八十代)の皇子である亀山天皇(第九十代)が即位されてから、後亀山天皇(第九十九代)までの九名の天皇が南朝から擁立されましたが、自天王が暗殺され、南帝の系譜はここで途絶えてしまいました。

役小角(えんのおずぬ)の創建と伝えられている、後南朝の菩提寺である「金剛寺」の境内には、「自天王(じてんのう)」の首(しるし)が葬られています。また、弟の「忠義王」が身を寄せたと言われる岡室御所(おかむろごしょ)<福源寺>には、自天王の兜(かぶと)が奉納されています。明治四十四年に宮内省により「自天王」の御墓の指定が、上北山村とされ南帝山瀧川寺(なんていざんりゅうせんじ)になりました。現在も「金剛寺」と「福源寺」では、毎年、朝拝式が行われており、菊の御紋で埋め尽くされるそうで御座います。この朝拝式は、筋目継承のための通過儀礼の役割を持っているそうですが、この筋目の人々は古来より無筋との縁組は許されず、今日も妹背(いもせ)という言葉が遺っていますが、このようにしてまでも、その血脈を守り通してお出でになりました。

 

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織田信長

織田家は、祭祀部族である忌部(いんべ)氏<越前忌部>の末裔で御座います。現在の愛知県小牧市に移り住み、神事であった相撲や鵜飼を手厚く保護されました。伊勢神宮の式年遷宮にも係り、三千貫文もの出資金をしたと伝えられています。「信長」は、美濃の鉱山の鉄を使った画期的な戦法で、天下を統一しようと、神武権力者によって山奥に追われていた「丹生家」の人々の力を得るために、変わった風貌で山を駆け巡っていました。「安土城の天守」の下の所に、京都の天皇の御座所と全く同じ造りが施されて、ここに正統天皇(大丹生家)をお迎えするつもりでありました。また「八閣の天守」は「八和幡之大神(やわたのおおかみ)」に御降臨を仰ぐためのもので御座いました。

忌部族は、出雲大社に奉納する「勾玉」造りをして来たお家柄でもあり、その地域に現在の玉造温泉が出来ました。そして「信長」は「十八弁菊花紋章」の刻印皿を所有し、側室の吉乃所縁の「勾玉」に、〇十と菊の印が付いているものが遺されているそうで御座います。

「信長」が行った比叡山の焼き討ちや石山本願寺との戦いなどは、宗教に神意が損なわれ、権力と栄華に浸る僧たちへの徹底的な戒めで御座いました。しかし天下統一を目前にした「信長」は、ついに京の本能寺で明智光秀におそわれてしまいました。

日本古来より伝えられて参りました大丹生家(正統天皇)にお出まし願い、「伊勢生成(いせいいなり)の神」を戴く誇り高き大和民族の復興を願われた夢は、虚しく消えたので御座います。京の公家たちにとりましては、正統天皇を出されたのでは、たちまち自分たちの立場が危なくなる為、当時の公家の方々を取り持っていた「光秀」をうまく言いくるめて「信長」を討たせ、その後は「光秀」を葬って、何食わぬ顔でいたのが当時の公家たちで御座いました。

吉野山の人類初の神祀りを閉ざし、人祖を消してしまった事がどれほど罪深い事であったかを伝えるため、「泰澄大師」は仏のお姿で人祖を説かれ「弘法大師」は真言密教でお伝えになり、「信長」は武力をもって成し、神意を政(まつりごと)に生かしてゆく大丹生天皇(おにゅうすめらぎ)をお迎えしようとされたので御座いました。

 

 

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円空上人

1.円空上人

江戸時代初期、美濃(岐阜県羽島市)にお生まれになりました。「円空」は、二十三歳で出家し、伊吹山・大峰山・白山・恐山・蝦夷地などの諸国を遊行され、生涯十二万体もの鉈彫(なたぼり)による荒削りの個性的な神仏像を、各地でお造りになりました。

 

 

2.空海と真名井御前厳子姫(まないごぜいつこひめ)

真名井御前は、丹波・真名井原の籠(この)神社の神官の家柄であります海部家直系の三十一代目宮司・海部雄豊(あまべおとよ)の娘で、淳和天皇の第四の妃として迎えられました。しかし六年後に中宮を退かれて西宮の如意輪摩尼峰に至り一宇を建て、空海をお迎えして如意輪の密法を修められるなど、修行をしてお出でになりました。

空海はこうした真名井御前を心から敬愛されていました。そこで真名井御前のお姿そのままを観音さまに現したいと、精一杯のお気持ちを込めてお願いされました。一方、眞名井御前も私ごときでよろしければと、お互い引かれあう想いを抑えに抑えて、同じようにお答えになりました。その後、三十三日を費やされて大悲の尊像が刻まれました。現在、西宮市甲山の神呪寺の秘仏・御本尊の「如意輪融通観音」こそ、あの時の眞名井御前厳子姫のお姿で御座います。

 

 

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3.円空の悟り

飛騨高山の国府に在ります正法寺に「千手観音」さまがお祀りされているその前に、一人の御坊様のお姿が彫られています。これは円空ご自身のお姿であり、これは円空が観音さまの仏力を戴いて、全ての仏さまを彫り上げている事を表しているそうです。

円空より千年位前に、泰澄大師が十三示元津(じげんかい)の生命誕生の施津(せかい)を「十一面千手観世音菩薩」さまで現わされましたが、勿論、円空上人はこの事をご存知であったと思われます。円空は、時の東山天皇(第百十三代)の像を彫られ「当国万仏十マ仏造り終える」と、その天皇の背に記されました。天皇を太元帥陛下の御姿で略式に彫られて、真言密教の中の雑密とされたので御座いました。

円空上人が彫られた三尊像なども遺されており「三宝亢進(さんぽうこうじん)」「三大蔵王権現」「三大太元帥」などを表されたものと想われます。円空上人は、沢山の仏さまを彫られましたが、生木を切って彫られたのは、伊吹山の太平寺の境内にありました桜の木を切って彫られた「十一面千手観音菩薩」一体だけであったそうで御座います。

 

 

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島津と隼人族(はやとぞく)

1.隼人族

鹿児島県の「霧島神宮」の辺りに配られた丹生家が、「隼人族」で御座います。「隼人族」は神武政権に対して、出来るだけ協力はしていかれました。しかし、神武権力にとりましては「隼人族」がいたのでは、神武天皇を初代とする権力者の作り上げた歴史を葬られるやもしれないと恐れ、「隼人族」と言ってはなかなか手が出せないので「熊襲(くまそ)」と言って、征伐を命じたので御座いました。そして、天武天皇の時代には、丹生家は徹底的に攻撃され、山奥に逃れて行かれましたが、「隼人族」は神の計らいにより遺されたので御座いました。それは、世情が大きく変化する時、常に日ノ本の国を救う役目が「隼人族」に託されていたからでありました。

「和気清麻呂(わけのきよまろ)」(隼人族)はその代表的なお方で、天皇家の一大危機をお救いになりました。この時代の日本は仏教王国となっておりました為、仏教の頂点に立つ者が天皇になってもよいのではないかと、「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)」が進言になれば、天皇も同じお考えであった為、これに対して「清麻呂」が「八和幡大神」にお伺いしてから決めるよう申し出になりました。

「天皇の地位に就く者は、人祖より大丹生家天皇(おにゅうけすめらぎ)の血統を継ぐ者でなければならない。」という「宇佐八幡之大神」のご託宣を戴き、天皇にお伝えになり、この一大事を収めていかれました。また、「清麻呂」は朝廷にお仕えしていた為、隼人族が部落として追放されぬようお守りされていました。明治維新に活躍なさいました「西郷隆盛」もそのお一人で御座いました。外国とも調和し、民主的政治を望まれましたが、長州の権力者たちによって葬られてしまいました。

 

 

 

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2.島津を守った人祖

関ケ原の合戦の時「島津」を逃す為、「初代」伊邪那身命が、霊仙山の麓にあります地蔵さまに乗り移られて、「島津」が捕らわれぬよう霊仙山に誘われて、君が畑を通って信楽・伊賀とお導きになり、堺港から逃していかれました。このお地蔵さまに「島津」の方は毎年お詣りされているそうで御座います。

また、徳川幕府が「島津」を征伐しようと試みるのですが、隼人族が守ってなかなか行かれなかった為、木曽川三川の難工事を「島津」に任命したのでした。揖斐川・木曽川・長良川と、誰がしても陸と海を分ける事ができない難工事をさせれば、必ず堤防は流されて沢山の費用と多くの人が犠牲になり、力も弱まるであろうという魂胆でした。案の定、予算の何倍もの費用を費やし、多くの人が亡くなってしまいました。その責任を取られた方が、故郷にお帰りになる前日に切腹をして果ててしまわれました。これに対して幕府は、徳川に楯突いた不届き者と言って、野晒(のざらし)の刑にしてしまいました。この事に心を痛められた、羽島の神宮神社の境内にあります清江寺(せいこうじ)の鉄船和尚が(てっせんおしょう)が、これだけの侍を野晒の刑とはなんたる事だと言って、その中の数名を、境内の墓に手厚く葬られたそうで御座います。もし徳川幕府がこの侍たちに対して、忠信の誉れであると言って祀っていたならば徳川はもっと長く栄えたであろうとの事で御座います。清江寺は泰澄大師(たいちょうたいし)が建立したお寺で御座います。

 

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3.大丹生家(島津)と丹生家(隼人)

平安時代になって丹生家への弾圧もある程度収まったので、四国へ逃れていた「大丹生家」の方々が、九州の隼人族(丹生家)を頼ってお移りになり、現在の鹿児島神宮の所で「大丹生家」をお迎えになりました。そして島津となりました。「大丹生家」の方々は、最初の内は「丹生家」のお蔭と喜んでおられましたが、次第に本家風を吹かすようになり、隼人族を見下すようになりました。この事を暗示した物語が「海幸彦と山幸彦の物語」で御座いました。海幸彦(大丹生家)が山幸彦(丹生家)に対して、「天皇家の事を分家がとやかく言うけれど、分家の身分では本家(天皇家)の事は解らないであろうから一度立場を替わってみてはどうか。」しかし山幸彦にしてみれば「分家だって、なかなか大変なのですから。」このような「大丹生家」と「丹生家」の確執を物語ったので御座いました。

 

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孝明天皇(第百二十一代)

徳川家の祖であります三河の松平に、全国を遊行していた僧侶が婿養子として入られました。そのお方が、「平和を尊しとしなければならない。」という言葉を遺されました。この言葉が徳川家代々の家訓となって、徳川幕府は三百年近く続いたので御座いました。

その江戸時代最後の天皇が「孝明天皇」で御座いました。明治維新に向けての混乱の中、公武合体をお考えになり、和宮(かずのみや)<妹>と有栖川熾仁親王(ありすがわたるひとしんのう)との婚約を破棄してまでも、和宮を徳川家に輿入れされ、平安を導こうとなさいました。しかしながら、和宮の夫・家茂が暗殺されてしまいました。孝明天皇は、御自身の存在が長州の権力者には邪魔であり、いずれ同じ運命になるであろうと予見してお出でになりました。

そこで天皇の護衛をしていました旭形亀太郎(元力士)に遺言なさいました。天皇家の御本地仏「太元帥明王(だいげんすいみょうおう)」は嵯峨天皇の御代より永きに渡りこの「生命継承権憲邪」を天皇家が大切にしてお祀りしてきましたが、長州の権力者(蒙古の血脈の勢力)の傀儡(かいらい)天皇(明治天皇)などには渡す訳にはいかないと仰いまして、「東寺」に預けるようご指示なさいました。そして、、御自身が暗殺されたならば、熱田神宮と伊勢神宮の中間地点に祀って欲しいと遺言なさいました。やはり「孝明天皇」は暗殺され、その数カ月後には陸仁親王も毒殺されてしまいました。長州勢力はこうして明治維新を進行させていきました。

明治二十三年頃に、旭形は「孝明天皇」の遺言通りに熱田神宮と伊勢神宮の中間に在ります知多半島を周り、知多郡武豊に在ります六貫山を御自身の全財産を投じて買い取り、そこへ孝明天皇を御祭りする「玉鉾(たまほこ)神社」を建立されたので御座いました。「三種の神器」の内「剣(熱田神宮」「鏡(伊勢神宮)」「玉」を孝明天皇の不戦の魂として「玉鉾神社」をお祀りになり、神国日本をお見守り下さろうとされたので御座いましょう。

この度大本教に収められていた「たまほこのひ可里」に、孝明天皇が旭形に託された天皇直筆の経綸書と御旗(みはた)の事が記されていた事が判明致しました。また、孝明天皇に危険が迫った「蛤御門の変」の時に、旭形が天皇を抱き上げて避難されお救いになられたそのご褒美に、神国の秘法であります「切紙神示(十・HELL)が伝授されていました。

 

 

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明治政府

1.明治維新

千八百六十九年の戊申(ぼしん)戦争<鳥羽伏見の戦い>を経て、同年に明治新政府が誕生しました。明治と言えば文明開化の時代として、華やかな面が強調されていますが、実態は長州の権力集団そのものでありました。江戸時代最後の天皇でありました孝明天皇は、日本が尊王攘夷思想(そんのうじょういしそう)で紛糾する中、あくまでも日本国の動乱を回避して平安を導こうとなさいました。しかしながら長州の権力者たちは、自分たちの思い通りにならない孝明天皇を暗殺し、その御霊魂祀(みたままつ)りまでも消した上で、山口県熊毛丹生家出身の「大室寅之祐(おおむろとらのすけ)」を長州藩から擁立して「明治天皇」として即位させたので御座います。

 

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2.長州の権力者のルーツ

その昔「蒙古襲来」の時に、「太元帥明王(だいげんすいみょうおう)<生命継承権憲邪>さまが神風を吹かせになり、「日本の国をお譲り下さった歴史は、皆さまもよくご存知の事と思います。その時に蒙古軍の船は沈没してしまいましたが、陸に残っていた一部の蒙古兵は行き場をなくしておりました。それを熊毛丹生家(差別の部落にされていた)の人が、ここでもよければと匿(かくま)ったのでした。この蒙古兵の子孫が明治維新を帥(ひきい)た長州藩の中心人物であったそうで御座います。故にこうした大陸系の権力志向の人々と、日本霊魂(やまとだましい)をお持ちだった孝明天皇とは通じ合わなかったの御座います。

 

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3.明治天皇の御先祖

人類の大祖人が、神の命(めい)により三十八名の御子をお産みになり、大丹生家(天皇家)と丹生家(分家)が誕生した訳ですが、その丹生家十八家の夫婦に、吉野山の神祀りをするよう人祖がお命じになり、丹生家の方々が畿内に赴任なさいました。

その一組が阿保(あぼ)の地におい出になり、またその御子たちが、阿保から熊毛の地に赴任して行かれて「熊毛丹生家」となりました。この事を裏付けるように、明治四年の頃、明治天皇は神示をお受けになり、天皇のご本家が「阿保」であることを告げられ、ご先祖に挨拶に行くよう導かれたので御座いました。天皇は早速「阿保」の地に行幸なさいまして、この地に在ります極楽寺に紋章をお授けになっているそうで御座います。

 

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4.與謝身(よさのみ)天皇に蘇る

「明治天皇」は長州権力の傀儡(かいらい)であったため、神は天皇のお世継ぎの男子をなかなかお授けになりませんでした。ところが天皇が知多半島の半田という所で、実戦さながらの軍事大演習をご覧になられた時、あまりの酷(むご)さに驚かれて、このような事をしていてはいけないと、初めて本来の天皇(すめらぎ)としての霊魂(たましい)に戻ることがお出来になりました。そこで大正腑(だいしょうぶ)の神が「初代」伊邪那身命さまをお遣いになり、そこに女性を用意なさいまして、天皇がお食事をされた「古扇橉」という料亭の娘さんに「初代」が憑かれて天皇にお目通りし、宮中に上がられてお二人を結ばせになりました。その後、男子が次々とご誕生になりました。

 

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5.廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

「明治新政府」が誕生し翌年の三月に「廃仏毀釈(神仏分離令)」が発布され、神宮寺が次々と破壊されました。なぜこのような事を政府が行ったのでしょうか。

「明治政府」は権力を掌握するために、仏教の中に密かに遺されている七百二十万年前からの人祖の尊い教えや、何ものにも換え難い生命を生産出(うみだ)す神々が仏のお姿として遺されており、有無を言わさず庶民を牛耳っていくには、こうしたものが邪魔になり、自分たちの自由になる「天皇こそが神」であるとして、そこに絶対的な権力を得ていったので御座いました。

 

 

 

 

6.富国強兵策

「明治政府」は諸外国から国を守るために「富国強兵策」を執り、強力な軍隊を創り上げ軍備大国への道を歩み始めました。アメリカ・イギリス・フランス等の工業先進国から武器を購入して、「西郷隆盛」を始めとする庶民の救済のために働く政治家を「西南戦争」で葬りすててゆきました。

 

 

 

 

 

7.西郷隆盛と征韓論(せいかんろん)

「西郷隆盛」は陸軍大将として国家最高の参議となりましたが、政府官僚の腐敗を嘆き、冷え切っている庶民の救済が先であると主張され、決して権力を利用する事はありませんでした。明治六年「征韓論」に敗れて政界から身を引かれて、故郷の鹿児島にお帰りになりました。西郷さんは韓国を攻めようとされたのではなく、頑なに開国を渋る韓国と修好条約を結ぶ為、武力で実現しようとする人たちに強く反対し、自ら全権大使として韓国へ出向き、アジアの連帯を本気で考えてお出でになりました。

こうして平和裡(へいわり)に外交を進めようとされた西郷さんは、国力を充実していずれ武力で覇権を握ろうとする勢力に敗れてしまいました。以降も新政府は「自由民権運動」に大弾圧を加え、民主勢力を一掃してゆき、海外への戦争体制を強めてゆきました。

 

 

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8.大日本帝国憲法発布

明治二十二年(千八百八十九年)「大日帝国憲法」が発布されました。しかし、「この憲法は日本国を亡ぼす憲法であるので、直ちに水に流す。」と神が仰せになり、「熊野大斎原(くまのおおゆのはら)」の世襲最後の伊邪那岐夫妻の御霊魂処(みたまどころ)を、大洪水で流しておしまいになりました。そして翌年の明治二十三年に「教育勅語(きょういくちょくご)」の原文を「長沢雄楯(ながさわかづたて)」に書かせになり、明治天皇が「教育勅語」を発表されたのですが、この神の大御意志(おおみごころ)に従わず、武器商人(フリーメーソン)の口車に乗せられて、大量の武器を購入して、工業先進国の武器輸出のための代理戦争とも言える「日清・日露戦争」をし、「朝鮮併合・満州戦争」と煽り立てたので御座いました。庶民は戦争のために命を投げ出し、隣国には多大な被害を与えてゆくばかりでありました。しかしこうした体制を非難すれば、網走刑務所に送られて拷問と極限の寒さで命を落としてゆくのでした。

「明治政府」とは、このような幕府から奪った権力を温存し、それを更に大きくしてゆく長州を中心とした権力集団であり、ついには大陸へと利権を求めて戦争する体制を創り上げていったのでした。

 

 

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明治・大正・昭和の戦争

1.戦争を始めた人類

この生命界は、植物・動物・人間が三位一体として、無限大の生命界の神仕組みを悟りながら賛助し合い、愛の産霊(むすび)に生きる「知瑠恵(しるめぐみ)」の霊魂(たましい)をもって、生きる喜び・楽しさ・うれしさの中で生命を継承する神業に従い、次なる子供・世代嗣子柱(よよししばしら)に繋ぎ止めて散って逝く、これが「知瑠恵」を生きる人間の姿であると伺っております。

しかし、人間は生まれてから知る禁断の「知恵」の魔力い引き込まれ、「利と得」を得んがために生命(いのち)も愛もなおざりにして「知恵」を使い始めてしまいました。するとその知恵に対して「権力」が発生して、利を得るために「武器」を造り持ち、相手を殺害してでも利権を守ろうと「戦争」を始めたので御座いました。然しながら、この知恵の社会は権力武力を増幅するのにはとても都合よいのですが、生命を憑軀子育(つくしだけ)<子を生み育てる>する霊魂が失せてゆき、「少子化」となってゆくそうで御座います。

 

 

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2.自由主義国に乗せられた明治政府

徳川幕府に開国を迫った自由主義国家・アメリカ・イギリス等の国々は、日本国を植民地にするよりも、独立国として朝鮮半島・大陸に進ませて、極東ロシアと対立させて共産主義の進出を食い止めるとともに、フリーメーソンに武器を売らせて儲けさせ、自由資本主義国の国益にする一石二鳥の妙案として、明治政府に対して言葉巧みに迫ったので御座いました。

 

 

 

3.庶民までも歓喜した代理戦争

フリーメーソンの武器輸出のための代理戦争を十年毎に繰り返し、明治二十七年八月の「日清戦争」明治三十七年八月「日露戦争」と戦争に明け暮れたので御座いました。このロシア帝国は、フリーメーソンの最大の強敵でありました。そのロシアに勝利した日本の国は、老いも若きも歓喜して、庶民の霊魂(たましい)までがフリーメーソンに奪われていったので御座いました。当の武器商人はロシア帝国に革命をもたらして、着々と目的を果たしてゆくのでした。

 

 

 

 

4.朝鮮半島・満州へ進出する日本軍

一方、代理戦争をさせられた日本は多くの戦争犠牲者を出すとともに、戦争を遂行するため、大量の武器弾薬を購入した代金の債務返済に四苦八苦するばかりでありました。そのための、若き将校たちの間には政府に不満を持つ者も多くいました。日本軍はロシア帝国が崩壊して極東アジアが空きの方(かた)となっているのに目をつけて、朝鮮半島を制圧して従属させておいて、満州そして南方へと進出して行き、ついに連合国との摩擦を生じる結果となりました。

 

 

 

 

 

5.米英に経済封鎖された日本

アメリカ・イギリスにとっては、ロシア帝国を封じ込めておく為にはこれもよしと認めていたのですが、日本が中国に侵攻して行く為、日本がこれ以上力を付ける事は都合が悪く、直ちに日本に経済封鎖を仕掛けて来たのでした。

 

 

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6.筒抜けの御前会議

日本国内では日・米・英の仲間内の事なので、必ず講和条約が締結できると信じていました。然しながら、フリーメーソンの言いなりになっていた長州全権たちであった為、御前会議の内容までが筒抜けになっていて、日本側の要望は何一つ聞き入れられず、このままでは無条件降伏するに等しく、決裂してしまったので御座いました。

 

7.大東亜共栄圏を訴え真珠湾攻撃へ

日本の指導者たちが反目し合う中で、このような卑劣な国にこのまま降伏したのでは、日本という国の天皇のことも日本霊魂(やまとだましい)も失せてしまい、この生命界がごく一部の富める者だけの世界となる事を憂慮された「東条英機」は、やがて立ち上がって来る東南アジアの植民地の人々の心に、「日本霊魂(やまとだましい)」を留めおくために大東亜共栄圏を訴え、全世界を一軒の家となす「八紘一宇(はっこういちう)」という言葉を遺し、ただ利益追求だけのフリーメーソンであったかと、思い悩んでも尽きぬ想いの悔しさに、玉砕を覚悟して敢行した真珠湾攻撃でありました。

次々と玉砕に玉砕を重ねて行く兵(つわもの)と、純粋一途に「日本霊魂」の下に殉死して逝った人間魚雷・回天の若き御霊魂(みたま)や神風特攻隊員は、何も知らず海の藻屑と化して逝ったので御座いました。日本を利用するだけ利用して、ただ利益のためだけに戦争に引き込んで徹底的に潰し、世界の見せしめにするが如く、罪なき国民を構うことなく日本全土を焼き尽くしたので御座います。

 

 

 

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神祇の裁定

日清・日露の戦争は、日本国民が民族の誇りと信じ、自分の事や家族の事など口にもせず、お国のためと朝鮮半島を拠所(よりどころ)として戦い、満州事変へと続きました。そして中国との戦争を終わらせる事が出来ず、そのまま東南アジアの国を巻き込む極絶太平洋戦争に突入して行きました。これは、他国の領地と人民を踏みにじり、犠牲を虐げた戦争でありました。これが侵略戦争であったことを確と肝に銘じなければならない日が、やがて来る事を神はご存知でありました。

最早これ以上の戦いは何方(どちら)にとっても勝ち負けではなく、恐怖の殺戮の世界に生命を封じ込めてしまい、犬死にとなる犠牲者の数を増すだけでなく、狂気の沙汰の兵器開発を促進させ核戦争になって、生命遺伝子が破壊されてこの生命界を滅亡に導いてしまう事を神は憂慮しておいでになりました。そこで、、昭和二十年(千九百四十五年)四月十二日に、生命をお生産出(うみだ)しになられた「天照皇大御神神(あまてらすすめらおおみかみ)」さまの「神祇(しんぎ)の裁定」が、人間の「生命継承権憲邪」人祖「初代」伊邪那岐尊さまを通して、「昭和天皇」と中国の「蒋介石総統閣下」とアメリカの「ルーズベルト大統領」に天降されたので御座いました。

「このまま戦争をすれば、後がどのようになるのか判るはずです。後始末の出来る内に停戦するが善いでありましょう。」と仰せになりました。例え防衛のためと言えども、この「生命(いのち)の故郷(ふるさと)」丹波国(たんばのくに)の丹庭(たにわ)「與謝津(よさかい)」天記津州(あきつしま)を戦場にすることは、決して許されることではありません。

 

 

 

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1.昭和天皇

人祖が「天の意和戸(いわど)」をお出ましになる時、「欲から発する知恵」は禁じられ、生命界が永遠に弥栄(いやさか)であるよう「知瑠恵(しるめぐみ)」が授けられ、「絶対に争い戦いは致さぬ」を誓う「御難賛助(ごなんさんじょ)の御誓約(うけひ)」を産霊(むす)ばれて、丹ノ本(にのもと)の国・與謝津(よさかい)「天記津州(あきつしま)に御降臨・御降誕あそばれました。この神との約束の儀式が「大嘗神祇祭(だいじょうしんぎさい)」で御座いました。

この初めの国が、明治・大正・昭和と権力者の利権拡大のために、天皇の名の下に戦争に駆り出され、玉砕していった御霊魂(みたま)にどうお詫びするか。そして次に来るであろう初めの国の宿命とも言うべき、核の戦場となる天記津州をどう守っていけるか。「昭和天皇」は進退窮まられた夢の中に、戦死された御霊魂たちが出て来られて、「このような戦争で、親子・夫婦・兄弟が死に別れて逝くのは我らだけでよい。もう二度と戦争をしない施津(せかい)が欲しい。」と訴え出られたので御座いました。

天皇は吾に立ち返られ「天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)」さまの大御意志(おおみごころ)であります「神祇の裁定」にお従いになりました。そしてこれをお伝えになられた皇祖皇宗(こうそこうそう)の御霊魂に涙され、直ちに杉山元帥を呼び出されて、日本国軍が推し進めていた原子爆弾の製造を中止させになり、この度の侵略戦争で犠牲となった国々に謹んで詫び入りながら、多くの愛国の若き殉難者の御霊魂を絶対に犬死にさせない為に、初めの国の責任において、二度と戦争をしない事をお誓いになりました。そして、停戦の詔勅(しょうちょく)とともに、連合国に無条件降伏され、世界の恒久平和のための正義の礎(いしずえ)になるよう、神に生命(いのち)をお預けになり、日本の国の再興を懇願あそばされたので御座いました。

 

 

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2.蒋介石総統閣下(そうとうかっか)

「蒋介石閣下」は孫文を師と仰ぐ社会主義思想の持主で御座いました。日本が中国を侵略して行った時、米英の資本主義国は中国に加勢して来ました。この時「蒋介石閣下」は日本と中国を一つにした社会主義の思想を呼びかけ、世界に伝えようとされたのでした。なぜならば、このまま資本主義を推し進めていくことは、将来、世界が富める国と飢える国と分断されてゆき、戦争発生の火種となってゆくからで御座いました。しかし中国は日本軍により多大な被害を受け、日本を許すことなど当然できるものではない状況下にありましたが、中国国内を資本・共産の両主義に依って内乱にさせない為、また日本の将来の為、世界の平和のためにも日本を許す事が出来るのは、其方(そなた)しかないという神の御意志(みこころ)にお従いになりました。核ミサイル時代を迎えるであろうこれからの世界で平和を求めるには、原子爆弾を投下したアメリカには任せる事は出来ない。そこで大東亜共栄圏を唱えて戦い敗れた新世界日本と、中国とロシアの国々とで、大和の国の和の精神をもって世界平和を完成させて行くこと。これが「神祇の神」 の大御意志でございました。「蒋介石閣下」はこの大御意志にお気付きになり、許せざるを許す「以徳報怨(いとくほうえん)」の霊魂(たましい)をもって日本をお許し下さいました。

昭和二十年八月十日、まもなく日本が投降するのを見越され、日本に対する戦争処理について、「蒋介石閣下」が自ら筆を執られて原稿を作成し、八月十四日に録音されて、翌月十五日の午前十時(日本時間・同十一時)に重慶より放送されました。

 

一.中国に在任していた日本の軍人と居留民二百余万人を無事復員させる。

一.捕虜もつくらず、ポツダム宣言で決めた十九兆円の賠償金を放棄する。

一.日本列島の四分割占領については、日本の将来のためにしてはならない。

一.天皇処刑のことは日本人自身が決める事であり、他国が口出しする事すでに侵略である。

 

この様に告示されたので御座いました。そして、これからの世界は資本主義ではなく、社会主義を打ち立てていくことを願ってお出でになりました。このようにして、「蒋介石閣下」は、中国の中にある資本主義の考え方を持つ人たちを引き連れて、台湾に隠遁されて世界平和への倫理(みち)を築いていかれたので御座いました。

 

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3.ルーズベルト大統領

神はアメリカに対しては、原子爆弾の製造を中止して「昭和天皇」と話し合うよう仰せになりました。しかし「ルーズベルト大統領」は、アメリカの軍力を世界に示す絶好の機会であるという意志を露わにされた為、神は即決で命を召し上げたので御座いました。(千九百四十五年四月十二日ルーズベルト死亡)

日本は明治・大正・昭和と神に背いて侵略戦争をして、初めての国の責任(宿命)として、人類史上初めての原子爆弾を受けるという憂き目に遭ったので御座いました。特に広島では、一瞬にして二十万人を超える市民が虐殺された悲劇に、日本政府は米国に抗議することすら出来ず、それどころか日本国軍は、本土決戦一億総玉砕を唱えて突き進んで行くばかりでありました。

例えどのような理由があったにせよ、愛を称える世界最大のキリストの国が、世界で一番最初に核兵器を使用した事は、生命をお創造(つくり)下さいました神に対して、詫びても、詫びても詫びきれない事であり、本来ならば国を挙げて生命の神に詫びしなければなりません。

 

戦争責任についての神の御詞(ことば)

明治・大正・昭和における侵略戦争の責任は、明治以来の日本国政府が突き進めて来た富国強兵・経済優先政策が生産出(うみだ)した幻なのであります。従って昭和天皇の責任でもなければ、東条英機の責任でもないのです。明治・大正・昭和と日本国政府が推し進めた欲望の大国主義を支援した国民の霊魂(たましい)に全ての責任が有るのです。

 

 

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日本国憲法第一条と第九条

三位一体の生命を誕生させるために、神が選び定められた生命の免疫所・與謝津(よさかい)「天記津州(あきつしま)」は、京都府與謝郡峰山町から元伊勢・天橋立・若狭に通じる地域で御座います。ここに「天の意和戸」において「御難賛助の御誓約(ごんなさんじょのうけひ)<この世で生きてゆくには、いろいろ難儀があるが、絶対に争い戦いをせず、お互いに助け合って生きる約束>」をされ、人類として最初に御降臨・御降誕あそばれた人間の「生命継承権憲邪」さまの血脈・系譜を継承する大丹生天皇家(おにゅうすめらぎけ)は、世界の中でこの日本だけに、今日までの継承されて来ているので御座います。

その天皇家が先の戦争において、この国体の名誉に傷を付け、「多くの若者を犬死にさせてしまい」死しても詫びきれない想いの中、この上この「生命(いのち)の故郷(ふるさと)、天記津州(あきつしま)を戦場にする」ことは許されない為、昭和天皇は神のお認め下さる戦争終結の仕方にお従いになろうと、この地球に生きる全ての生氣物(いきもの)を核兵器から守り、二度と戦争をしない絶対不戦を神にお誓いになりました。

この天皇のご決断を観届けになられた神は、大丹生家天皇の霊魂を継承すべく、天皇の御位(みくらい)を「日本国憲法第一条」におくみ上げになりました。そして、神が仰せになりましたことは、『人間は軍力・武力・権力・金力というものに固執していますが、ここまで来れば解るでありましょう。日本が人祖の国であるが故に、争い戦いを致さぬ事を神と約束したその責任において、戦争を国権の発動と認めない「憲法第九条」を与えたのです。』という御詞で御座いました。

九条は九氣九神(くきくしん)の総要「天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)」の大御意志(おおみごころ)である為、九番目になっております。「弥勒再下生(みろくさいげしょう)の神聖画」の中に九神の理(ことわり)を九条の旗で現わされました。

こうして神は日本をお救い下さるための二津(ふたつ)の懇願を同時に叶えることの出来る御神聖「日本国憲法第九条」を天降しになり、停戦と同時に日本国を世界平和の聖国とされ賜いたので御座いました。日本があの焼け野原から目覚めて復興を遂げられたのも、昭和天皇が大丹生天皇家として、神がお認めになる本来の天皇のお姿に立ち返られたからで御座いました。「万世までの太平を開かんと望(ほっ)す。」と神の大御意志を人類に約束されて、人類後期の世界平和の道標が出来たので御座いました。このように「天皇(すめらぎ)は、神の大御意志を伝達実行なさる皇尊(すめらみこと)」で御座います。故に日本国民がこの御神示(ごしんじ)を理解し従うことが出来た時、「日本国を立て直す事が出来ると同時に、全人類・地球が救われる時である」と仰せで御座います。

これこそが弥勒の世で御座いましょう。皇祖皇宗の御霊魂を戴く初めの国が、もしも神との約束を無にして戦争してゆくならば、今度は原子爆弾では済まされない「核の戦場」になる事を覚悟しなければなりません。故に九条は核を持つようになった人類に降ろされた最後の御慈悲であり、次に来るであろう核戦争を封印し、生命界が弥栄(いやさか)であるよう願われた「世界平和憲法」で御座います。

 

大和霊魂(やまとだましい)

 

大和民族が継承し続けてきました大和霊魂とは、愛の産霊(むすび)のために生きる霊魂の事で御座います。今の日本国憲法第九条を改定して、自衛隊を国連軍に参加させることは、日本霊魂ではなく、今上天皇が御即位の大礼に際し、「憲法を遵守する。」という御詞に従い、愛の産霊(むすび)のために生きる霊魂をもって、世界平和のために生きてこそ「日本霊魂」で御座います。今こそこの「日本霊魂」を世界に宣布なし、戦争を断ち切り、神の大御意志「日本国憲法第九条」をもって、世界恒久平和の基を樹立する時が来ていると神が仰せで御座います。

 

 

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日本国憲法第一条と第九条

第一条 [天皇の地位・国民の主権]天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基ずく。

第九条 [戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認]

 

①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 

②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

 

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海上警備隊の創設

昭和二十年に日本国憲法が施行され、日本は二度と戦争しないと宣言いたしました。しかし、翌年には日本海軍の元大佐でありました方が中心となり、再軍備の研究グループが結成され、海軍再建に向けて極秘の内に研究を始めました。

元大佐は、終戦の四日後に行われました連合国軍との会議に、日本側の代表の一人として、降伏に関する協議に出席していました。

そしてついに、天皇にも総理大臣にもお伺いを立てることなくアメリカに従い、昭和二十七年に海上自衛隊の前身であります海上警備隊が創設されました。これは七十七年間の旧海軍の伝説を受け継ぐ軍隊そのもので御座いました。連合国の中で最大の軍事大国でありましたアメリカは、戦争を国権の発動と認めない「日本国憲法第九条」を神より戴いた「昭和天皇」の御意志(みこころ)に乗じて、日本の軍閥・財閥の解体のために日本国軍の武装を封じ込めたのですが、極東での軍事負担を軽減するためには日本に自衛兵力を再建させた方がよいと考え、極秘の内に自衛隊を創らせたので御座いました。「蒋介石閣下」の御意志を無視した日本軍は、資本主義国のアメリカに追従して日米安全保障条約の名の下に核の密約を交わし、北朝鮮をだしにして武器をどんどん売りつけられて、今や日本はアメリカに継ぐ世界第二位の軍備大国となっているので御座います。その上アメリカの最前線基地として幾つもの米軍基地を置き、基地内の米軍兵の利用する施設まで用意しているのです。世界中で現在も起き続けている戦争も環境破壊問題にも、日本はアメリカと一緒になって拍車をかけ混乱へと持ち込んでいるので御座います。

 

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日本国憲法第九条の改定の動き

日本は「憲法第九条」によって守られ、世界恒久平和の基(もとい)の聖国となったのですが、もしこの大切な九条がなかったならば、大戦後アメリカが行った朝鮮戦争やベトナム戦争、そして湾岸戦争などに、敗戦国の兵士として参戦しなければならなかったでしょう。また「日米安全保障条約」にしても、日本の国が九条を貫き通してこそ護られるのですが、今日の日本国政府が推し進めている日米同盟は人類の仕合せにはならず、かえって戦争を助長するもので御座います。

「昭和天皇」が崩御あそばされるや否や、「憲法第九条の改定」を公然と唱えるようになって来ました。これは神に背く事であり、すでに神罰とも思える我々への気付きのための現象が起きてきております。こうした事に対して、お詫びする意志など少しもなく、天皇を差し置いて総理大臣の公選制を唱えたり、九条改定を視野に入れながら純粋な気持ちで靖国の御霊魂(みたま)への慰霊と唱え「自衛隊を派兵」をさせたり、「有事立法を成立」させる事は許される事ではありません。

生命(いのち)に代えて本土を戦場からお救いになられた「昭和天皇」の御意志(みこころ)や「靖国の御霊魂」の事を省みる事もなく、アメリカが極東において「日本列島と自衛隊を楯にしようとする」ことは、靖国の御霊魂への大義をあまりにも無にした為、ついに靖国の御霊魂が立ち上がり、人間の「生命継承権憲邪」さまに訴え出られたので御座いました。日本国憲法第九条改定を唱える事は、人間の生命継承権をお持ちの憲邪さまに従えない事となり、人間の生命を抹消するに等しく、また、憲法を遵守すると仰せになった今上天皇を無視(暗殺)する事にもなって許されるものではありません。

こうした事から平成十四年六月六日に、ついに人間の「生命継承権憲邪(人間の太元帥明王)」さまがお出ましになり、怨敵調伏(おんてきちょうふく)の顕現をもって斟酌するでありましょうと仰せになりました。国を守る気概は持たねばなりませんが本土を戦場にしてはなりません。どの国も想いは同じで、軍事大国は国権の発動をもって正義と言い、力のない小国は自爆破壊をもって正義と言い、怨念の復讐をし合っていてはこの生命界の終わる日が来てしまいます。まず大国が小国を助ける事からはじめ、「日本国憲法第九条」をもって世界平和を達成する以外道はないと、神が仰せで御座います。全人類がこの事に気付かねばならない時が来ているにもかかわらず、その九条を有する当の日本国政府が、アメリカと共同有事立法とは何という事でしょうか。日本がまたフリーメーソンとの交流を深め、與謝身(よさのみ)「昭和天皇」が神よりお受け止めになりました「日国憲法第九条」を放棄して、世界の武器商人に完全に霊魂(たましい)を奪われてしまえば、日本列島がこの生命界から消えてゆくでありましょうと、神が仰せで御座います。

しかしながら、この丹ノ本(にのもと)の国は決して消滅させてはならず、生命の免疫所として定められた與謝津(よさかい)「天記津州(あきつしま)」が在ればこそ「生命継承権憲邪」さまが御降臨・御降誕になり、全ての生命がこの地球上で生氣(いき)続けることが出来ているのですから。

「武器・兵器を使用せんがための九条改定」は許される事ではありません。この事は隣国にとっても脅威でしかなく、日本国の安全につながらず、逆境してしまいます。「日米安全保障条約」があれば日本列島は安全であると想い込む錯覚が、北朝鮮に無意味な刺激と挑発を与え、政治家も報道関係も北朝鮮の事を問題にして、身勝手な事しか伝えていないように思われます。国民は過去の歴史はよく解らず、日本は北朝鮮に対して戦前のお詫びも賠償もせず、ただアメリカに同調して軍備を進め、アメリカの基地の必要性を日本国民に知らしめるために、必要に応じて拉致問題を取り上げて報道させてゆく。また、拉致問題を国連に訴えて、危険国家であるという理由で憲法第九条を改定して、日米同盟を軍事同盟化すればするほど北朝鮮だけの問題ではなくなり、極東アジアの問題として、世界の東西の軍事的決着を付けなければならない事となり、第三次の核戦争になるやもしれず、その時は危険物列島国家の日本が消滅する時と覚悟しなければなりません。世界の制服組軍人にしてみれば一度はしてみたい核戦争の実験場として、日本は後始末が一番しやすいと言う条件を持っており、この事を日本人がよく知らねばならないと、神が仰せで御座います。

 

 

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日本国憲法第九条は世界の宝

日本が九条を遵守しておれば自衛隊はなかったはずですが、知らぬ間に世界第二位とも言われるほどの軍備をし、日米同盟の名の下に、アメリカ・イギリスが推し進めている石油の利権のためのイラク戦争に参加した事は、天記津州(あきつしま)の国がする事ではなく、かえって国土の安全を脅かす事になってしまいます。また、核弾道ミサイル迎撃構想の導入も、武器商人にとりましては魅力でありますが、日本の安全保障にはならず、わずか十分以内で日本列島に着弾してしまう核弾道ミサイルには通用せず、もし海上で百パーセント爆破出来ましても、その爆裂の害の放射能汚染は偏西風によって全て日本列島が背負う事となります。

一度、憲法第九条を揚げて、平和国家として名乗りをした日本の国にとって、九条改定は何一つ国益になる事はありません。よって真の国際恒久平和を築くために、戦争を国権の発動と認めない「日本国憲法第九条」を、世界の平和憲法とする精神を貫き通し、初めの国の使命を果たすことが重要であると、神が仰せになりました。

日本は人祖より大丹生家(天皇家)が神との契約を代々伝えて、平和を守り通して来た大和民族で御座いますが、神武天皇によって権力国家となり、天武天皇の時代は、徹底して虐げられてきました。こうした民衆を救うには、一切の武力を持たない九条でなければ、弱い立場の民衆は救われません。

九条は真の民主主義を生み出してゆく世界に類無き憲法であり、日ノ本(丹ノ本)の国だからこそ、神より降ろされたので御座いました。何百年何千年という永い歳月を経て「昭和天皇」によって、人類がやっと取り戻すことが出来た神と人との約束「御難賛助(ごなんさんじょ)の御誓約(うけひ)」であり「世界の宝」で御座います。

 

 

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先頭へ

昭和天皇の御詞

平成十一年十一月二十八日

「朕(ちん)が生命(いのち)に代えて戦場になる本土を護った意を、汝(なんじ)らは何と意志(こころ)するか。今、朕霊(ちんれい)を無視し、日本国憲法第九条を改憲して何を護るというのか、確(しか)と己の生魂(いきだま)に尋ねてみるがよい。」と仰せになりました。

 

 

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靖国神社問題

明治政府は先進国に惑わされ、相手国の言いなりになって、国民の納めた税金の多くは、大量の武器の購入にあててゆきました。そして、朝鮮半島・中国と敵対してゆき、極東の国々を差別し、ついに明治二十七年に始めた日清戦争から昭和二十年八月十五日まで、十年毎に繰り返し侵略戦争をしてきました。この五十年以上支配して来ました日本の帝国主義者、軍国主義者の霊魂(たましい)の象徴が「靖国神社」で御座います。この神社には、先の大戦で殉難死された全ての霊魂(みたま)をお祀りするのではなく、明治・大正・昭和と続いた権力者が天皇の名の下に赤紙招集という意気をかけ、その中の戦死者の御霊魂だけをお祀りしています。同じ戦争において亡くなられた一般の民衆や、原爆によって死亡された御霊魂は放置されており、靖国神社は民主的な祀りではありません。純粋一途に、日本霊魂(やまとだましい)の下に殉死して逝った若き兵士の御霊魂を偲び、その無念さを想う心など権力者たちには無く、ただ自我の欲望だけのために創設した自衛隊には、日本霊魂な何もなく、「一体どこの国のために戦わんとするのか見事に答えてみるがよい。」と神が仰せになり、平成十四年八月十五日の終戦記念日の前夜、NHKの特別放送として「海上自衛隊はこうして生まれた」を放送させになりました。

そして総理の靖国神社参拝ごとに、中国・韓国の人々が騒ぐのは、靖国の御霊魂たちが自らの国を案じて騒がしているとお示しになられ、反省を促されたので御座いました。昭和天皇は、天皇の名の下に散って逝かれた御霊魂に申し訳なかったというお気持ちで、靖国神社に参拝してお出でになりましたが、諸事情により、世界の国々に対しのお計らいから、昭和天皇も今上天皇も参拝して生出になりません。戦争のために肉親と別れ玉砕していかれた靖国の御霊魂の無念を救われたのが「日本国憲法第九条」であり、二度と戦争をしない国になった事でありましたが、この神の大御意志(おおみごころ)に楯突いて原子爆弾を降下したアメリカと一緒になって、しかも憲法違反の自衛隊を海外に派遣して表面に出し、国民の税金を沢山使って、再軍備して普通の国になろうとする。その上、神の大御意志であり世界平和のための宝であります「日本国憲法第九条」の改定を唱えての総理大臣の靖国参拝は、靖国の御霊魂たちの屈辱であり、怒りが渦巻いていると仰せで御座います。

昭和天皇の「万世の為に太平を開かんと望す。」の御詞。そして、東条英機さまも何のために「戦争無用・希求平和」の言葉を遺されたか。また、ノーベル賞を受賞なさいました湯川秀樹博士は、生命の大切さに気付かぬままに原子爆弾を開発してしまい、その後、後悔から世界連邦を立ち上げになり、「世界は一つ」という言葉を遺されました。力ある国が軍力武力で一つになっても何の意味もなく、日本国憲法第一条と九条でもって生命を守り、戦争のない平和な世界で一つになってこそ弥勒の世界で御座いましょう。お一人でも多くの方に、この憲法の真実を語り伝えて大きな輪を拡げ、世界を戦争のない平和な地球にしていけますようお祈りしております。

 

 

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先頭へ

世界の宗教の元は一つ

1.大本(おおもと)の神魂

大本の王仁三郎(おにざぶろう)とは大丹生三郎(おにゅうさぶろうの事じゃ。大丹生(おにゅう)とは、人間の人祖として一番最初にこの地球に御降臨・御降誕遊ばされた大丹生童児(おにゅうどうじ)・童女(どうじょ)の事であるのじゃぞ。成人の暁に「初代」伊邪那岐尊・「初代」伊邪那身命と成られたお方の事で、人間赤零迦児(あかむかご)と言う姿を以って、丹波国の貴天原真名井原(たかあまはらまないはら)の丹庭(たにわ)の地に御降臨遊ばされたお方の事じゃ。今もその地には、その証として石碑に刻み遺される文字が

「瓢訓(ひさごとよむ)・瓢世(むかごなり)・比佐古之社(ひさごのやしろ)・古佐宮(よさのみや)」

と記されてあるがな、それは瓢箪(ひょうたん)のような形をした零迦児(むかご)が脱皮して、童児と童女が降誕したのじゃ。「瓢箪から齣」と言うであろうがな。その零迦児が天降だされた丹庭(たにわ)が人祖・人間発祥の地で有るぞよ。その人祖の地が一郎であるならば、童児と童女が上陸した現在の舞鶴市大丹生の地が二郎となり、三番目に住み暮らした綾部(あやべ)の地が三郎となるがや。

人祖「初代」伊邪那岐尊・「初代」伊邪那身命がお遺しに成られた教えが「人が欲から発して出す知恵は、絶対に使用しては成らぬ」ときつく戒められ、人がその知恵を使用すればするほど、この世界の滅び終わりの刻が訪れるのじゃ、見えるは末世ばかりであるぞえ。聖書にも書いてあるがな、アダムとイブが知恵の木の実を食べて(知恵を使って)その楽園から追放されたと書いてあるがな。人間が使って許さるのは、この生命界の弥栄(いやさか)を願う「知瑠恵(しるめぐみ)」だけで有るぞよ。さすればこの生命界が永遠の弥栄に向かって生成繁茂向上発展する限りであるぞよ。その為に人間に八和幡(やわた)の神理氣(しんりき)をお祀りさせたのじゃ。「釈尊」や「イエス」や「空海」も他の教組達が何を説き教えたかを確と知り置かねば成らぬぞよ。いま様々の教団で、日輪太陽からの御光(みひかり)の事を語り教えているがな。「真光(まひかり)」とは「芒種)ぼうしゅ)」の事で有るぞえ。この地球には、全てを産み出す神理氣はあれども育てていく神理氣は無く、日輪太陽からの真光の中に有る「芒種」と申すエネルギーに依り全てが育てられるのじゃ。その「初代」の東核芒種大伝道師(とうかくぼうしゅだいでんどうし)がお伝えに成れた八和幡神理氣は次の通りであるぞよ。

 

◉宇宙産神理氣(うちゅうしんりき)・・・「総監」  ①天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)」

三位一体の神理氣・・・「息津(おきつ)」 ②日輪太陽津(にちりんたいようかいしん)

「湍津(たぎつ)」 ③宇宙産迂迦神(うちゅううがしん)

「邊津(へつ)」  ④産土之地球神(うぶすなのちきゅうしん)

※②③④で三神

 

青赤血種(あおあかちぐさ)遺伝子・・⑤「東生(とうう)」天生零迦児神(あうむかごのかみ)

◉岩漿富貴(まぐまふき)の神理氣・・⑥「卯根(うこん)」月暦見満引神(つきよみみちびきのかみ)」

◉雄蕊・雌蕊伊勢の神・・⑦「皇親(すめらかむつ)」神漏樹六根神(かむろぎろくねのかみ)

◉雄・雌の伊勢の神・・⑧「皇親(すめらかむつ)」神漏身六根神(かむろみろっこんのかみ)

 

※①②③④⑤⑥で六神

※①②③④⑤⑥⑦⑧で八神

 

三・六の世とはこの六神の世の事であるのじゃ。

そしてこの八幡之神理氣(やわたのしんりき)を千五百代もの長期に渡りお祀りされて来た大丹生家(おにゅうけ)の千五百代目の当主「天照(あまてる)天皇」<二代目・東核芒種大伝道師>が「八和幡之神にお願いされ、人祖「初代」伊邪那岐尊・「初代」伊邪那身命を神として加えさせて戴き、十神(とかみ)としてお祀りになられたのが伊勢生成(いせいいなり)の神姿(かみすがた)であるぞよ。しかし「神倭伊波礼毘古尊(かむやまといわれひこのみこと)の東征」により、大丹生家・丹生家の神の御神体も宝物も徹底的に撤収され、破壊されてしまったのじゃよ。このような神の国の日本民族が、他国の神や仏を祀るのも佳いけれど、今一度自国の神を見直すのも佳いではないか。

今こそ人祖「初代」伊邪那岐尊(「初代」東核芒種大伝道師)のお言葉に有ります、欲から発してくる知恵で「三と六」「三角と六角」の化学ニュートリノの研究をすることは恐ろしく、直ちに止めなければ成らぬぞよ。原子核分裂の研究を止めず奨励したばかりに、今と成って全面核廃絶・全面禁止を叫んでみても、どうにも成らんがな解るかな。唯、見えて来るのは生命界の終わりの姿じゃぞ。今こそ日本人が日本の神を知り、日本の真実の歴史を学び立ち上がらなければ、人祖「初代」伊邪那岐尊より千六百三十二代もの歴史が世界遺産と成って仕舞うぞよ。

 

 

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三千世界 一度に開く 梅の花

これは大丹生三郎(おにざぶろう)の言葉ですが、三千世界とは、三つの血、即ち植物・動物・人間の血の遺伝子を生産出(うみだ)された、宇宙産迂迦(うちゅううが)の施津(せかい)を示す言葉で御座います。一度に開くとは、三つの血の遺伝子(雌蕊・雌・女)の産女(うめ)の花(梅の花・梅には母という字が入っている)が一つの星(地球)に同時に産まれ開いて生命を継承し続けている世界は、この広大無辺の宇宙産(うちゅう)の中では、この産土の地球しかないぞよ。何時までも戦争に明け暮れて神の御意志(みこころ)に適うと思うのか・・・。なぜそれが解らぬか・・・。

 

 

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2.経文

現在遺されております経文は、必ず最初が南無(なむ)という言葉から始まっておりますが、これは七(な)六(む)を表し、神より生命界の永遠の弥栄(いやさか)のために、最初に人類にお与え下さいました宝物であります七十六音の「知瑠恵(しるめぐみ)」の「言霊」を表し、全てがそこから始まり、人祖より伝えられております「伊勢の神」を学ばれました。「釈尊」が遺されました経文には、天界の父母と人類が最初に対話なさいました七(な)六(む)が全て基であり、そこへ帰依することを意味しております。

 

 

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3.キリスト

キリストとは、生命生産(うみ)出し身生(みあ)れの基督(きとく)神理氣の事であるぞよ。

◉天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)

 

◉①日輪太陽津神(にちりんたいようかいしん)

◉②宇宙産迂迦神(うちゅううがしん)

◉③産土之地球神(うぶすなのちきゅうしん)

※①②③で三位一体の基督(きとく)神理氣

 

天生零迦児神(あうむかごのかみ)

 

◉月暦見満引神(つきよみみちびきのかみ)

※潮の満引満干のマグマの神理氣

 

この三・六の基督神理氣の世界を弥勒の世と申すのじゃ。この地球上に一番最初に生命が天降された国の事を、日出ずる日ノ本の国と申すのじゃよ。そこには天津神理氣の神筋(かみじ)と国津神理氣の神筋が有る。その二津の神筋が交わる霊域を神祇の地と申すのじゃぞよ。その神祇の地にお祀りされている伊勢生成(いせいいなり)の基督神理氣を理解する事が出来たモーゼ様が、自国に持ち帰りお祀りされた基督(きとく)がキリスト様と申して居るのじゃ。

その神をイエス様が身を以って神祇の地の基督の神理氣として、十字を切って正しく伝導しようとされましたが、そのイエス様を異端者と決めつけ十字架に掛け処刑したのは誤りであるぞよ。イエス様が犠牲となり、十字の地の神祇の神が復活したかと思いきや、イエス様が処刑された処刑台の十字を礼拝するとは恐ろしく、イエス様が浮かばれんぞよ。一日も早く神祇の地の十字にしなければならぬのじゃぞよ。

 

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世界平和への道標

1.熱田神宮の御祭神

天照天皇(あまてるてんのう)<速素佐之男尊の兄>

速素佐之男尊(はやすさのおのみこと)

建稲種尊(たけいなだねのみこと)

宮簀媛命(みやずひめのみこと)

日本武(長)尊(やまとたけるのみこと)

この五名のお方は、現在の日本国憲法第九条、すなわち、「伊勢の神の御神聖」であります「民草和氣(くさなぎ)の御神氣(ごしんき)」に従い通された方々で御座います。

 

 

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2.熱田神宮を三八子(みやこ)<都>とする

人類の元生産親(もとうみおや)であります「生命継承権憲邪」さまは、人類発祥の十九組の男女に因む、十九組の国常立尊をもって初代内閣を組閣なさいました「天照内閣の御霊魂」の全てを、熱田神宮にお集めになりました。続いて、第七代「饒速日内閣の閣僚の御霊魂」が鎮座されています島根県松江市和多見町に在ります「賣布(めふ)神社」に、中丸薫氏を平成十二年一月二十八日に遣わせになり、十九名の国常立尊の御霊魂を三日後の一月三十一日に、熱田神宮にお移り願ったこの世の証とされました。そしてこの民草和氣神宮(くさなぎじんぐう)に三十八魂を集わせになり、「熱田神宮を三八子(みやこ)」とされ賜いたので御座いました。」

 

 

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3.日神山

熱田神宮の前身「氷上姉子神社(ひかみあねごじんじゃ)があります「日神山」は尾張族の中心地であり、太古に速素佐之男尊が兄の天照天皇よりお授かりになられた「伊勢生成(いせいいなり)の十種神鳳(とくさしんぽう)」現在では、日本国憲法第九条の御神聖をお祀りになられた場所であり、また、倭姫命(やまとひめのみこと)が伊勢神宮の宝剣でありました「絶対に争い戦いは致さぬ」を誓う「民草和氣(くさなぎ)の神剣(しんけん)」を、日本長尊に命じて運ばせになられた神聖地で御座います。速素佐之男尊が日輪太陽津神(にちりんたいようかいしん)の「日」と「神」とを戴いて、この聖なる山を「日神山」とお名付けになりました。

 

 

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4.世界遺産となった三野(みや)

世界人類の氏神の御神体「伊勢生成(いせいいなり)の神」が、平成十六年九月「吉野山」「熊野古道」「高野山」を世界遺産にお選びになりました。今世界では宗教同士の争いは絶えず、国連の組織にしましても損得利益の利と得で選ばれて、生命を救うことは出来ません。そこで神は、人類が一津(ひとつ)となってこの生命界の足跡を遺した初めの国の神仕組みを世界の要の遺産として、神が世界遺産に登録させになりました。

 

 

吉野山

 

元伊勢の奥宮、丹波の国の真名井原丹庭(まないはらたにわ)に御降臨になりました「初代」伊邪那儀岐尊が、この地球に生きる人類の祖として、永い悟りの旅の末に、吉野山の山頂に立たれた時、この地球上で全ての生命が生氣ていくためには、植物・動物・人間の三位が一体でなければ生き合えない事をお悟りになり、三つの霊石をその頂上に置かれ、植物・動物・人間の「生命継承権憲邪」をお祀りされたのが、人類の最初の神祀りで御座いました。この祀りをお守りするために、丹生家十八家を吉野に配り置かれました。しかし、最後は丹生家筆頭の役小角(えんのおづぬ)がお祀りされていましたが、天武権力に逮捕され、その後は、山頂から下へ移されて、現在は水分(みくまり)神社に八幡造りの社にて七社が祀られ、以前を改ざんして遺されております。

平成十六年七月一日より一年間、蔵王堂にてご開帳されました三体の仏さまは、吉野山に最初にお祀りされた化身のお姿で、植物・動物・人間の元生産親(もとうみおや)「三大生命継承権憲邪」さまのお姿で御座います。後の人が仏に現在のような名前を付けて、お祀りされたそうで御座います。

 

 

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熊野

熊野川の中州の大斎原(おおゆのはら)にお祀りされていた、伊邪那岐家世襲最後の伊邪那岐家の親子の御霊魂処(みたまどころ)は、明治二十二年に明治憲法が発布されましたが、神が「この憲法は亡国憲法であるので、直ちに水に流せ。」と仰せになり、大斎原の三殿だけ残し、他の建物の行場・小屋・祈祷所など、大洪水でことごとく流しておしまいになりました。そのため現在の本宮に移されてお祀りされました。

①熊野本宮大社の御霊魂処

神殿に向かって

◉アマテルカミ尊御夫妻の墓処

弟の隣に葬って欲しいと遺言なさいました。

◉速素佐之男尊御夫妻の墓処

速素佐之男尊は、母が亡くなられたのが、お小さい頃であったため、何一つ思い出せず、母恋しさの魂が大斎原の父母の墓処を何時もお参りされ、大事にお守りされました。それ故に、ご自分の死後は亡き父母の隣に葬って欲しいと遺言されました。

◉伊邪那岐尊御夫妻の墓処

長男アマテルカミ尊と弟速素佐之男尊の父母

 

 

我が丹ノ本(にのもと)の国の初めの神祀りは、「吉野山」(創根ケ峯)でありましたが潰されてしまい、「伊勢神宮」の神祀りも、権力者が作り上げた「古事記」に則る神祀りとなり、本来は「御身生(おんみあれ)祝詞」を『丹波の国の貴天原は真名井原丹庭に生(な)り坐(ま)せる、唯一神明(ゆいいつしんめい)三位一体伊勢生成(いせいいなり)の神を「天照皇大御神」と拝み奉りて』と唱えなければならないのですが、「筑紫国(つくしのくに)の高天原は日向(ひゅうが)の小戸(おど)の阿波岐原高千穂峰(あわぎはらたかちほのみね)に生(な)り坐(ま)せる、天之日子穂穂出見尊(あめのひこほほでみのみこと)・天津身光日之大御神(あまつみこひのおおみかみ)を拝み奉りて」と唱え始めてしまい、「伊勢の神」が與謝宮(よさのみや)・内宮を離れておしまいになり、尾張国の日神山に移られた経緯もあり、伊勢神宮の神が神武権力の氏神となってしまいました。故にわが丹ノ本の初めの国の神祀りを、神の意志により人類のご先祖をお祀りした御霊魂処となさいました。故に歴代の天皇さま、親王さまが幾度となく熊野詣でをなさいまして、蟻の熊野詣と称されました。

 

 

 

②補陀洛寺(ふだらくじ)

神倭伊波礼毘古尊(かむやまといわれひこのみこと)が、現在の那智の海「なぎさの森」に軍勢を入れ、上陸して大斎原(おおゆのはら)を占拠したその入り口で御座います。また聖徳太子が、神武権力の弾圧に苦しんでいた丹生家の人々を、関東に逃がしていたその出口でもありました。

 

 

③速玉神社

大斎原の案内所であり警護所でありましたが、神倭伊波礼毘古尊は「なぎさの森」から山越えをして熊野川に出、瞬時に大斎原に入り知らない内に占拠されてしまいました。そのため警護の役目を果たす事がなかったので御座います。

天皇の御霊(住吉造)・皇后の御霊(神明造)・皇太子の御霊(若宮造)この三神の御霊魂処で御座います。

 

 

 

④花の窟(いわや

 

ここに祀られている伊邪那身命は、伊邪那岐家世襲最後(約千五百代目)の伊邪那身です。

伊邪那岐家世襲最後の伊邪那岐尊・伊邪那身命さまは、ご長男のアマテルカミ尊と共に、山育り植林と、田作り国造りにとお励みになってお出でになりました。母の伊邪那身命さまは、素佐之男尊の次の御子を身篭りながら普及に励まれていました。現在の「花の窟」のある辺りで急に産気づき、小屋にも帰れず、岩陰にお入りになり、お一人でお産なさいました。しかし産後の出血多量により、袋をかぶって産まれた児(迦具土尊)を助けることも出来ず、親子とも亡くなられた場所で御座います。

 

「花」とは、丹生丹生魂遺伝子(にしょうにゅうこんいでんし)で、「血」のことを表すそうで御座います。よって、お釈迦さまの「花祭り」は遺伝子の祭り、生命を頂いたことの感謝のお祭りとなります。また愛知県奥三河の「花祭り」は、青鬼(御丹 おに)が一匹と赤鬼が二匹登場します。青鬼(植物の遺伝子)・赤鬼(動物の遺伝子)・赤鬼(人間の遺伝子)。赤鬼(人間)が鉞(まさかり)をかざして木を切る仕草で踊り、青鬼(植物)が榊の値引きの物を持って出て来ます。これは木を切れば一本植えて、自然を守ることの教えで、人祖の御教えがこうした行事に遺されています。

 

 

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高野山

空海は大門と大塔と奥の院を、同じ基礎石の高さに造営できる山地を求め、山入をして見つけられたのが高野山で御座いました。全てみな平等である事を真実の霊験言霊・七十六音(南無)をもって悟り、真言密教(伊勢生成の神)の教えとし、伝え遺されました。神武天皇は、丹波の国の貴天原真名井原丹庭(たかあまはらまないはらたにわ)の人祖降臨の地をないがしろにして、「伊勢生成の神」の御神体を撤収してしまい、権力で人の命を奪ってでも天下を取る時代となっていました。

「空海」は、生命の大切さを求道され悟られていましたが、「伊勢生成の神」を表に出す事が出来なかった為、生命を誕生させるための「絶対なる五神理氣」①日輪太陽津神(にちりんたいようかいしん)、②宇宙産迂迦神(うちゅううがしん)、③天生零迦児神(あうむかごのかみ)、④月暦見満引神(つきよみみちびきのかみ)、⑤産土之地球神(うぶすなのちきゅうしん)を仏さまの御姿で現わされて、中心の日輪太陽を「大日如来」で以って現され、他の四体の仏さまは現在では意味が解らなくなっています。この「五神理氣」により、最初に生命として誕生された「植物・動物・人間の元生産親(もとうみおや)」であります「三大太元帥明王」を「太元法」で真言密教に遺されました。また、、「金剛界曼荼羅」で雄蕊・雄・男を現わし、「胎蔵界曼陀羅」で雌蕊・雌・女の施津(せかい)を現わされて「伊勢生成の神」を密教の教えとして今日まで遺し伝えてお出でになります。

 

 

KONICA MINOLTA DIGITAL CAMERA
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天皇

天皇は、生命の継承権を戴いて、この地球生命界に人間として最初に御降臨された人類の大祖人が源で、その血統血脈を嗣ぐお方で御座います。故に世界の中で唯一、日出ずる丹ノ本(にのもと)・初めの国にお出でになるお方で御座います。人祖が天(あめ)の意和戸(いわど)をお出ましになる時に、神と約束なさいました「御難賛助(ごなんさんじょ)の御誓約(うけひ)<たとえどのように辛くても、お互いよく話し合い共に賛助し合い、絶対に争い戦いはしないことを誓う>」が、天皇ご一代毎に行われます「大嘗神祇祭(だいじょうしんぎさい)」で御座います。このようにして人祖が神と約束なさいました事を、天皇になられたお方は、必ず守る事をお誓になります。そして、天皇は生命継承権を戴いた男子でなければならない理由(わけ)が、生命生産出(うみだ)しの宇宙産(うちゅう)の理(ことわり)にありました。

「日輪太陽津(にちりんたいようかい)」から放出される生命の原子「丹(に)」が、宇宙産迂迦の障壁賀(丹生津)において「生(しょう)」と結ばれ、「丹生丹生魂遺伝子(にしょうにゅうこんいでんし)<霊命>」がん誕生してゆく事から生命が始まり、この日輪津(にちりんかい)の「金剛蔵王(こんごうざおう)の金玉(こんぎょく)」を戴いて、生命の継承をしてゆくのが、「雄蕊・雄・男」の「雄(お)の施津」で御座います。人間の「生命継承権憲邪」さまのお名前が「初代・伊邪那岐尊」と「岐」が使われていますのも、血種を分け移すという意味が込められており、女性の「初代・伊邪那身命」は「身」に受け「命」を宿すという字となっております。

「天皇」とは、人間の「生命継承権」を戴いた「憲邪」さまであり、「金剛蔵王の金玉」を戴いた男子の精子には、全ての情報が内蔵されていますので、その直系の男子でなければ万世一系とはならないと伺っております。

「空海」さまは、植物・動物・人間の「生命継承権憲邪」さまを「三大太元帥明王(だいげんすいみょうおう)」として大切に密教でお伝えになり、その弟子の「常暁(じょうぎょう)」がこの「太元帥明王」を「天皇家の御本地仏」として天皇家に奉り、幕末の孝明天皇の御代まで天皇家でお祀りしてきました。

宇宙産(うちゅう)の生命は、太陽(光生神父 こういしんぷ)から放出される「丹(に)」を丹生津(丹生神母 にしょうしんぼ)が受け止めて霊命を誕生させになり、この地球で生命と誕生してゆく、この光生神父から始まる生命誕生の神仕組みを理解し、誤りない生命界の発展のために、「天皇」は男性でなければならず、人祖(大丹生童児)が吉野山で悟りをなさいました時にも、吉野山の創根ケ峯(あおねがみね)を黄金(太陽)の峯「金峯山(きんぷせん)」となさいまして、絶対に替えることができない「天皇の道」をお示しくださり、女人禁制とされたので御座いました。この峯に行く道に、現在も天王(皇)の橋が残されています。

故に、天皇は女性では勤まらず、もし天皇を女系にしますと天皇家は消滅してゆくと伺っております。歴史上には女帝も存在しましたが、その時は、天皇になる男子がいない為、仮にその座に就かれ、その血筋に男子が誕生すると、年端もいかない内に天皇にして、男系を守っていかれました。このような生命(いのち)の仕組みを伝え、その生命の有りようを代表されるお方が「天皇」でありますので、生命を御創造になられた神の大御意志(おおみごころ)そのままに、人類をお導き頂かなくてはなりません。人祖が神と約束なさいました「御難賛助(ごなんさんじょ)の御誓約(うけひ)」の中でも筆頭が「生命継承」で御座います。その事を象徴してお出でになるのが「天皇」で御座います。この生命界において、皆が安心して生命を継承してゆける国造りをなさるのが「天皇」のお役目で御座います。

故に、日本国憲法第一条の天皇の御位と九条の不戦の誓い、これを定め置かれた事は、日ノ本・神の国にとりまして、どれ程重要なものであるのか、大和民族は今一度、天皇のご存在を正しく理解し、今こそ民族が一つとなって世界の平和に貢献すれば、全人類の平和が達成する時であり、その責任が初めの国の「天皇」にあると、人間の「生命継承権憲邪」さまが仰せで御座います。

 

 

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