月次アーカイブ: 1月 2018

今朝魂に響いてきた言葉を記しておきます。

爾(なんじ)・・・

まずは「禰宜(ねぎ)」について。御存知のように「禰宜」とは神社における神職の職名の一つです。普通は、上から「宮司」「禰宜」「権禰宜」という順で、「禰宜」は「宮司」を補佐する立場にあります。「禰宜」という言葉は、「ねぎらう」の語源である「労(ね)ぐの連用形」から来た言葉のようですが、「ねぐ」という言葉が目上の人に使われる場合は「祈ぐ」と書かれ、神の心を和ませ加護を願うという、祈りの意味になります。

ここまでの意味はわりと知られていること。今日は、その先のもっと深い意味です。

雄略天皇22年11月新嘗祭の夜、伊勢神宮の祭祀を司っていた倭姫命さまが受けられた天照皇大御神さま・豊受大神さまからの御託宣を起源とする「六根清浄」の祝詞の中にありますように「人は則(すなはち)天下(あめがした)の神物(みたまもの)なり」(人は地上に現れたる神の子であり神の分霊である)。

神からみたら、「互いに切磋琢磨し、より素晴らしき人・魂と成るよう」と「荒奇幸和(こうきこうわ)の四魂(しこん)を与え、「安らかならん」と、現世(うつしよ)に産み出した我が子です。「四魂(しこん)」は「紫金(しこん)」です。仏教で云う処の、の如来の出ずる時に現れ給(たもう)た瑞(ずい)としての「閻浮壇金(えんぶだんごん)」のことです。「閻浮壇金(えんぶだんごん)」は、仏教の経典中にしばしばみられる想像上の金の名称で、砂金の中でも最高の物で、やや紫色を帯びた金色をしていると言われています。

人の魂の成り立ちについて、神道の「一霊四魂」という解釈の仕方がありますが、四魂「荒魂(あらみたま)・奇魂(くしみたま)・幸魂(さきみたま)・和魂(にぎみたま)」があり、それらを直霊(なおひ)という一つの霊がコントロールしていて、四魂がうまくバランスが取れまとまっていると「和」に治まります。神が人に向けて「なんじ」と呼ぶ時「四魂」を分け与えた分身です。この「なんじ」が「爾(なんじ)」です。

爾(なんじ)

内側に書かれている四つの「メ」の字。これがそれぞれ「荒魂・奇魂・幸魂・和魂」を指します。

「神の子としての爾(なんじ)」が「禰宜(ねぎ)」の「爾(ね)」。「禰宜(ねぎ)」という職務とは、この四魂の「和」の在り方を「示す」のです。
「爾(なんじ)」、平らかなる天より降(くだ)りたる、安らかなる直霊(なおひ)が、四魂となりて生命を産み殖やして行く。「爾(なんじ)」は、「神の子」としての「人」に対する「神の呼び声」なのです。

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毎日寒い日々が続いていますが、皆さまお元気でしょうか?私は、日々いろいろな方々に御縁をいただいたり、祈りを捧げながら、ゆるゆると生きています(^^)/

昨年末に起こった江東区の富岡八幡宮での事について記すつもりはなかったのですが、やっと記す気になりましたので記録にのこしておきたいと思います。あの事件が起こった数時間後に私はピンポイントで江東区に行くことになっていました。。事件のことは何も知らなかったのですが、既に行く事になっており、準備完了で出発する寸前になり、日本のあちこちからメールが入りました。「みゆきさん、富岡八幡宮のこと知ってる!?」と。知らせを聞いてびっくりでした。いつものことですが、表には見えてないし知られていないような水面下でゴタゴタが起こっている地や修正すべきことがある地や浄化が必要な地などによく呼ばれ、事に取り組むことになります。当日は警察が入りゴタゴタ状態でしたので、周りから祈るという形で終えました。そして、今年に入りお正月、また江東区に行く流れにありました。今度は神社でしっかりと祈り、神職の方々とお話しするために行きました。行って観じたことは、、思った以上にエネルギー的に落ちてしまっていたこと。まだお正月から一週間だというのに人もパラパラしかいないし、全体に悲しいエネルギーが漂ってました。精一杯の祈りを捧げ、社務所で神職の方々や巫女さんたちへ神々の想いや応援メッセージを伝え帰ってきました。

心身の状態を整え万全の状態で行く準備を整えていたのですが、前日急遽睡眠がほぼ取れない状況になってしまったことがあり体が弱っていたせいか?思った以上に打撃を受けてしまったようで、神社を後にして数時間後、腹痛と下痢。肉体は浄化器官であり、あまりに強い負のエネルギーにさらされると、頭痛・発熱・腹痛・下痢・吐き気などを起こし体を調整しようとします。私の場合、たいていは頭痛だけで、しかも数分~1日ぐらいで浄化できるので、寝込むこともないしそれほど苦しいとかの状態にはならないのですが、帰宅して整体の先生に診ていただいたところ、「体が打撃を受けた為、皮膚機能停止し、その影響で内蔵機能低下してる」と言われました。負のエネルギーを受けて対処できず皮膚機能停止&臓器機能低下しているようでは、本当にまだまだです(*_*;

富岡八幡宮、大切な神社です。私も、良き氣に戻ることを応援していますし、皆さまの清い祈りの力が必要とされていると思います。

私は「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」の祝詞が好きで、よく神棚の前で唱えるのですが、六根(ろっこん・むね)=目・耳・鼻・口・身・意を清浄にすれば、五臓すなわち肺臓・心臓・肝臓・腎臓・脾臓が健康で一切の氣枯(けが)れもなく、御神霊が身体に入ることになり、肉体を通し天意を表すことになります。それは神羅万象全てと一体となることであり、神羅万象と一体となれば天地の神と同根になることであり、それ故に万物の霊と同体であり、万物の霊と同体なるが故に為すところ一切成就する、という非常に素晴らしい祝詞です。知らず識らずの間に犯した罪・咎・穢れも、身を清めるこの六根清浄の祝詞を唱える修法で、心身スッキリすることができます。

この宇宙にある全ての存在、植物も動物も人間もエネルギーの境はないので、お互いに良くも悪くも影響し合っています。六根清浄、常に良きエネルギーを発し、周りの全ての命と触れ合うことができるようにしたいものです。

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神道の神髄や日本人の心の在り方などを外国の方々に説明したい時が多々あるのですが、日本語で表現すれば上手く伝わることも、言語が違うと微妙なニュアンスが違ってしまうため、非常に難しいと感じています。英語ではどうにも表現しにくい部分があります。

「惟神(かんながら)」を説明する時の参考になる資料があるので紹介したいと思います。

「わかりやすい神道」
By 山本行恭(椿大神社 宮司)・翻訳 植村昌夫

「Kannagara」

Kannagara has been interpreted in various ways,
such as ”according to the kami,” ”kami just as
they are,” ”as a kami,”because of being a kami,”and” the
kami's will, just as it is.” ”Kannagara” is ”kan +nagara”.
”Kan” is a variant of ”kami”, while ”nagara” is a word whose
approximate meaning is "as" or "according to "or "because of".
The expression kannagara no michi'(the way in accordance with
the will of the kami) signifies Shinto itself.
Kannagara is not itself a religion, although it is at the heart of
Shinto.  It is best understood as a non-exclusive principle of
universalism that can exist in all religons and should exist as a
self-corrective idea that calls every historical religion back to its
fundamental roots and to the basic insight that the finest results
for life are achieved when a person lives "according to the
Kami". For this reason, a Shinto believer will not reject something
just because it is not Shinto. A Shinto believer can be at home
with any kami that shows the power to elevate his soul. A Shito
believer who denounces other religions is not a real Shinto
believer. He or she can be at home in a Shinto shrine at New Year, a Buddhist Templle at the festival for the souls of the ancestors or a Christian Church on Christmas Eve. All of these make individual sense. They are authentic. They complemet each other. This
approach to religion can be called the kannagara understanding of the place of religion in human life, human society and in
human culture in general. Religions should try to realize the spirit
of kannagara in order to remain true to themselves.
Kannagara need not be understood as unique to the Japanese but is a concept with universal significance and appplicability.
Kannagara has to do with spirit, and with bringing the human spirit and activities into line with the spirit of Great Nature.

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皆さまお正月をいかがお過ごしでしょうか?既にお仕事が始まった方もいらっしゃるでしょうね。
私は・・・
家族皆でおせち料理を囲み楽しく語らったり、冷蔵庫の大掃除をしたり、柚子ジャムを作ったり、カーディガンの毛玉取りをしたり、読書をしたり、お友達とメール&電話したり、とても穏やかな時間を過ごしています。昔からお正月は外出したくない私なのですが、娘のおみくじを引きた~い!という声で、急遽初詣に行く事になり、参拝の長い列に並ぶことに。でも、新年の御挨拶ができて良かったです。

裏の畑でたくさん柚子がとれたのですが、地の恵み、本当にありがたいですね!お風呂にもいっぱい入れて柚子風呂にも入りましたが、柚子の香りがお部屋やお風呂に充満し、冬の素晴らしさを心身で感じることができ、ただ ただ幸せ溢れる時間に感謝でした。

柚子ジャムは、3キロの柚子を使いました(^^)/
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外皮と身と種を分けます。種はグツグツ煮て、トロミ出しのために使うので捨てちゃダメですよ。外皮は千切りに。
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たくさんできました~(^^)/
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ちょっとメッセージ

真の賢者は我欲無く 与えられたる道をただひたすらに歩む者
神は人が過たず苦しまぬよう光を示し正しき道に導くが
人は我欲 浅はかさ故
道を外れて あえて険しき道をゆく者 より楽な道をゆく者
寄り道 遠回り 時を無駄にする者あり

他に振り回されること無く
過去に執着 拘り無く
不平不満言うことも無く
平凡 繰り返しにも耐え
己の前に示された道のみを無心に進めよ

高き視点を養い 足るを知れば
己の為すべきはいかなるや
手に取るように見えるなり

人が心の中に神の社を建てれば神社という形は本来必要なきもの
己の中に宇宙を内包し 全てと調和を図り
新たなる素晴らしき世創りの為
大和民族の心ひとつになること今必要なり

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あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願い致します。

新しき年を迎え、まずは神への感謝、先祖への感謝、先人や周りへの感謝ですね。皆さま、ありがとうございます!

元旦には一年の目標を立てたり夢を想い描いたりしていることでしょう。私も同じくです(^^)/運が良いとかツキが良いとか言われたりしますが、「ツキ」「運」は決して偶然に起こるものではありません。心の修行が必要なのは言うまでもなく、そのカギは毎日の努力精進・積善にあります。そして、常に自分の夢・目標を潜在意識に自己暗示として明確に映像化し具現化することです。素直な心でどんな小さなことにも真心を込めて有り難くやらせていただく姿勢、毎日の笑顔で明るい日々を送ることこそ幸運に添う最良の道なのです。

人は皆神の子、神の分霊(わけみたま)をいただいている神の分身なので、魂は神と直結しています。修行の第一歩は六根を清浄にすること。眼・耳・鼻・口・身・心の全てが同時に神の意のままに動くことが神人合一。過去・現在においての六根全ての邪気・因縁因果の一切を清め、人間神化と宇宙進化の為、共存共栄し、それぞれの役目を果たし生きることができるといいですね。

皆さまの一年が素晴らしいものとなりますことを心からお祈りしています。

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今年も一年大変お世話になりました。ありがとうございます!皆様に支えられ、助けられ、学ばせていただき、とても充実した楽しい日々を過ごすことができましたことを心から感謝しています。ほぼ毎週日本のどこかからいらした方々が家に泊まり、ほんとに賑やかな一年で、こんなにたくさんの方々が家に泊まったのも初めての経験でした。そして、日本のあちこちの宮司様たちや関係者様たちと社務所でお話しをする機会も非常に多く、表からは見えない深い部分を知らされ、考えさせられることも多かったです。

うちの猫ちゃんたちも大きく成長し元気で過ごしています。そして、つい先日のこと・・・娘がバイト中に公園で見つけた赤ちゃんノラ猫も加わり更に賑やかに。数週間保護していましたが、めでたく名古屋市の方がもらってくれることになりました。猫大好き!というとても素晴らしい方にもらわれ、幸せな日々を過ごしています。
コロちゃんという名をもらったそうです(^^♪
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周りの御縁ある方々の御蔭で自分の中のたくさんの欠けに気付くこともでき、その欠けを埋めるべく向上しようと努力し成長にも繋がったと思います。「欠け」は神の慈愛ですね。完璧ならばなんの成長も繁栄も無く動きも生も無し。己の欠けを認識させていただける周りの存在全てに感謝しています。ありがとうございます。

今年も残りわずか。皆様にとって素敵な時間となりますようにとお祈りしながら、今年最後のメッセージを記して締めくくりとさせていただきます。

己の内に我欲多くば 邪なる神目を覚ます
歓び 愛 感謝を持たば 己の内なる神も目覚め輝きを増す
この世に生まれ生かされるは
神の世界を物質界に現わすことなり
神のみなれば
事を起こすこと無く 物質も命も無し 生に意味無し
不足作りて対なる陰陽作りて
物質界を動かさんとす
完全完璧なるは
動きも止まりて 無となり 死となる
互いの欠けを補い合いて 助け合い
良き循環生まれ 和が生まれることこそ
宇宙原理の根本であり
陰陽生み出されし初めの法則なり
神のことばを内に聞け
神の姿を内に見よ

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