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皆さまお久しぶりです(^^)/お元気でしょうか?私は・・・はい、元気で過ごしております。毎週末のセミナーを県外あちこちでさせていただいているのですが、それはもう感動や驚きの連続で。自然の素晴らしさや神々の導きなどもいただき、多くを学び心も癒され豊かになり、感謝の思いでいっぱいです。平日は、セッションも含め、様々な方々が家にいらしたりしてお話しする機会を多くいただいてます。セミナーの最中でもそうなのですが、あちこちの宮司様と社務所でお話しする機会も多く、全ての御縁に心から感謝しています。ありがとうございます!日々たくさんのことが起こり感じることも多いです。その一部をちょっとだけ記してみます。

熱田神宮鬼門方位の守護である御器所八幡宮の宮司様とはよく社務所でお話ししたりするのですが、先日もお電話をいただきお誘いがありましたので皆さまにもシェアしたいと思います。
毎年1回社務所で小さなお話会を開催しているそうです。たまたま御縁ある地元の方々が数人参加されるだけの小さなものです。今年は、5月26日(土)13:30~社務所にて開催されるそうです。今年のテーマは「徳川家康公」。宮司様、家康公が大好きなんです!話し出したら止まらない(笑) 参加費は必要ありませんが、お気持ちを神様にお供えする形でいいと思います。どなたが参加されておOKですので、興味のある方は御器所八幡宮へ直接お電話するか、またはトランブレーみゆきまでご連絡下さい。お話しはたぶん2時間ぐらい?ではないかと思います。このように宮司様と御縁いただき、違う立場の者が交流するのはいい機会だと思います。

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数日前は三重県➡和歌山県➡奈良県➡大阪に行ってました。今回は、熊野古道。世界遺産指定神社の宮司様と地元の方の案内で山の中に入り一日中話し合いをしていました。非常に複雑な事情があり、ネットには一切記すことがきない状況ではあるのですが、たくさんの方々の力を必要としています。地元の多くの方々が複雑に絡み合っての事なので、間違って伝わってしまっては困るので、茶話会・セミナー・セッション・または御縁ある方々に直接丁寧にお伝えしていきたいと思っています。熊野古道に通っているので、和歌山県や奈良県や三重県のセッションなど可能ですので、お声かけてください。

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石上神宮のニワトリさんに赤ちゃんが産まれてました~\(^o^)/ピヨピヨ、かわい~い!

4月20日の写真です
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愛知県蒲郡市の八百富神社あたりにいるカモメもかわい~い!

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野良ちゃんとしてうちにやってきた親猫とその赤ちゃん猫&岐阜からやってきた赤ちゃん猫、大きく成長しています。みんな みんなかわい~の(*^-^*)
岐阜から来た子は、1月頃血尿が出て病院に連れて行きました。ストラバイト結石症と診断され点滴をやることに。添加物の入ってない良いキャットフードを与えていたのですが、体質のようです。まずは、PH5.8を~6.2に調整するため、溶解作用が一番強いPHコントロールの食事療法をして、現在はもう少し柔らかなPHコントロールレベルに戻しています。猫ちゃんも家族。人間と同様、健康をきちんと考えてお食事を与えたいです。猫ちゃんの御蔭で、いい勉強をさせていただいてます。

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娘が公園で拾い数週間保護し養子に出した猫ちゃん。イケメンの青年に成長しています(*^^)v

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お友達と三輪山登拝させていただきました。木がバッサリ切られ、風通しもよく、明るい雰囲気でした。朝市がやっていること知らずに行ったので、たくさんのお店がズラ~リでびっくり! 朝から団子をパクパク、美味しかった~(^^♪桜も満開、非常に美しく感動でした。久延彦神社の展望台のところは見事でした!

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春はやっぱりイチゴですよね
熟し過ぎたり余ったりするとイチゴ屋さんから「イチゴとりにおいで~!」と電話がかかってくるので、段ボールごともらってきます。イチゴとバナナに豆乳ヨーグルトを混ぜ、ハチミツをかけて食べると美味しいのよ(^^♪ハチミツは仙台のお友達が送ってくださいました。とても心の綺麗な方で、この方が関わり作るハチミツなら絶対おいしいはず!と思って一口食べてみたら、やっぱりとっても美味しかった(^^♪やはり心の清さが伝わってきますね。

仙台市秋保町  森のはちみつ

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5月5日は、岡崎市岩津天満宮で開催される「赤ちゃん相撲」の御神事の受付をやることに。神社さんからまた依頼されましてお仕事を。赤ちゃんを中心に、三世代が笑顔でいるのを見るのはとても嬉しいものです。赤ちゃんの成長をお祈りしながらお手伝いをさせていただきたいと思います。

昨年の5月5日は天河弁財天奥の院である弥山に登ってました\(^o^)/

お庭に咲いているお花たちです。デジカメ壊れちゃったので、携帯で撮ってます。古いタイプの携帯で画像はあまりよくないけど、それでもお花が綺麗なのは伝わるかな(*^-^*)

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玄関にはこのお花を飾ってます
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みなさんも心ゆ~ったり過ごせますようにとお祈りしています

戦災の被害について、以下熱田神宮造営誌から抜粋し記します。

名古屋に本格的な空襲が加えられたのは、昭和十九年十二月。明けて昭和二十年。日に日に激化する空襲の様相は、当神宮の職員にも最悪の事態に対する決意を固めしめた。百二十名の職員は既に非常事態に入り、警報発令と同時にそれぞれ定められた配置につく日々が続いた。
果然、三月十二日夜、二百数十機のB29来襲、遂に無数の焼夷弾が神域に落下した。
劫火は夜明けまで荒れ狂った。この日焼失した施設約九十、建物の延坪約千五百坪(約四九五〇平方米)。境内諸施設の殆ど三分の二を一夜にして失った。
中でも、国宝に指定されていた鎮皇門を始め、東楽所など貞享三年改修築のもの等、多くの由緒深い建造物を焼失したこと、又前述の新築間もない勅使館、神楽殿、斎館、官庁など一連の建物を悉く失ったことなどは、この上もない痛恨事であった。
当神宮では、直ちに仮宮庁を焼け残りの錬成場(旧宮庁)に移して応急処置を講じ、とりあえず奉祀、参拝に支障を来さない最小限度の施設の復旧に全力を挙げた。
熱田神宮御被災のことを知った国民からは、一日も早い御復興をと、切実な祈りをこめた浄財が数多く寄せられた。約一月後には被害視察に来宮した大達内務大臣の五百円を始め、総額は実に十万円に達している。
だが、非情な戦火は再び、熱田の社を犯し来った。
大本営発表(昭和二十年五月十七日十二時四十分)
一、本十七日二時頃より約二時間に亘り南方基地の敵B29約一〇〇機名古屋地区に来襲市街地に対し主として焼夷弾攻撃を加えたり、右に依り熱田神宮御本殿御屋根の一部及付属建物の一部炎上せり
なお名古屋市内各所に発生せる火災は払暁迄に概ね鎮火せり
二、現在迄に判明せる戦果撃墜九機撃破二十二機なり
前回の空襲から辛うじて免れた諸施設は炎上潰滅した。
しかも恐れ多いことながら、戦火は遂に御本殿に及んだのである。勿論御本殿被災と知って職員は死力を竭した。燃えさかるお屋根の上で炎に包まれながら、無理矢理に引きずり下されるまで火と戦った職員もいたし、御本殿の中へホースを抱いてとび込み、煙に巻かれて失神寸前に救い出された職員もいた。火は神宮、消防、軍隊などの必死の努力によって、御屋根の半ばを焼いて消し止められた。しかし、戦火の及んだ本殿を存置することは恐れ多いと直ちに解体の工が進められた。
翌十八日の新聞紙上に次の様な長谷宮司謹話がのせられた。
「真に恐懼に堪えない次第でありますが、前日御神体始め御動座申し上げたのは真に御神慮で、まことに感激置く能わざるとこ ろであります」長谷宮司の談話中、「前日御動座申し上げ・・・・・・」とあるのは次の様な事情であった。
万一の事態に備えて地下御本殿が築造されていたことは、前節で述べたが、問題は、何時奉遷申し上げるべきか、という奉遷時期の問題であった。神爾の奉遷はは云うまでもなく、最高の重大事である。まして当神宮の場合、宮中の御意向を拝せねばならぬ。軽々にすべき事でなく又出来ることでない。といって時を失して万一の事態に至ることは絶対に許されない。恐らくは、神宮当局首脳の苦悩は筆舌に尽くせないものがあったにちがいない。三月の大空襲も御本殿に関する限り御異状がなかった。だが果して何時まで御異状なしと云い得ようか。遂に断が下った。奉遷の儀を執り行うと決定せられた期日、それが実に五月十六日であった。当時の情勢下に於ける、能う限りの厳儀を以って奉遷が行われた。朝から行われた奉遷の諸儀は夜に入って終わった。安全この上なき地下御本殿に奉遷後僅か数時間の後、名古屋地区にB29来襲の警報が発せられ御本殿の御屋根にも御被害を蒙ることになろうとは。御神慮の程ただただ恐れ多い極みであった。
五月十七日空襲の被害は、本宮関係を始め、国宝海上門其の他であった。

熱田神宮造営誌 その1・その2

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先日熱田神宮の終戦後について記しましたが、終戦前のことについても少し記しておきます。

以下、「熱田神宮昭和造営誌」から抜粋

防災工事

この頃名古屋市は軍需産業の一大中心地であった。殊に熱田の宮の鎮まります南部地区は航空機を始め多くの軍需工場が櫛比していた。万一戦端が開かれた場合には空襲の危険は十分に予測された。しかも大陸の戦火は次第に拡大し、世界情勢も第二次世界大戦勃発を目前にしていよいよ緊迫の度を加えていた。
この様な情勢から昭和十三年六月、政府及び神宮当局では、絶対に必要となる日の来ない事を熱願しつつ、神儀奉護の為に、有効な措置を取らざるを得ないという結論に達した。
そして実施に移されたのが、「神庫」新設工事であった。
神庫はまずあらゆる空襲に耐え得るものでなければならない、と同時に神儀を奉斎する為に神殿形式であることを要する。この条件から、工事は内務省と、陸軍築城本部とが中心になって進められた。当時の広瀬内務次官と陸軍築城本部長が来宮、現地に於いて長谷宮司を交え慎重に検討の結果、国費十五万円によって施行することを決定。更に再度にわたって内務次官、神社局長以下が来宮して位置その他を検討するなど、まことに慎重な準備を経て工事に着手した。
同年十月地鎮祭を執行。築城本部が当時最新の築城技術をあつめて設計した、一トン爆弾の直撃にも堪えることが出来るという、地下御殿の建設が進められた。
面積神庫三八坪七五(一二七・八平方米)東廊西廊二一坪五〇(七〇・九平方米)計六〇坪二五(一九八・八平方米)総体は鉄筋コンクリート造で一部鉄骨、鋼鉄製扉が三重に設けられ、気密鉄扉で外気と遮断されるようになっていた。屈折した廊下を経て、気密鉄扉内は内陣、外陣に分かれ、総桧造の社殿形式が施工された。
勿論この工事は当時としては機密を要する工事であった。従って工事名称を、「水道工事」として外部に工事内容が漏れるのを防ぐなどの苦心を重ねながら一刻も早い完成を目指して工事は進められた。
完成は昭和十四年末。後述する様に五年余の後、恐れ多い事ではあったが、一時神儀を奉遷申し上げて、奉護に完きを得たのは、実にこの神庫のおかげであった。
神庫の工事と殆ど時期を同じくして、本宮を中心とする防火施設が、大きな規模をもって開始された。
この施設工事には十万円余の経費が投入され、国費の外に奉賛会、特志家などの浄財があてられている。
施設の概要は非常の際、市水道が断水した時を配慮したもので、境域の東西二ヶ所の神池(各水量約一三〇〇立方米)の水を、両神池に接して設けた二ヶ所のポンプによって汲み上げ、十分な圧力を加えて本宮周辺七ヶ所の消火栓から放水しようとするものであった。ポンプは八十馬力のガソリンエンジンが東西ポンプに室にそれぞれ備付けられた。ポンプ室は空襲地震等に耐える様に、鉄筋コンクリート鉄扉付とし、東は一〇坪五三(三四・七平方米)西は一二坪七一(四一・九平方米)の面積をもつ。ポンプ室から本宮周辺へは、径二五〇ミリの配水管を埋設、それぞれの消火栓を結んだ。
東西両神池の水の補給は境内に西部に二本の鑿井を新設し、この井水を掦水して正参道両側の側溝に導き、最後に神池へ流す仕組みにした。従って、神池へ常時水が流れ込みいつも十分な水量が確保されていたわけである。
鑿井の深さは一本が約一三三米、一本が約三三〇米であった。前者は愛知県下全小学校生徒から寄付金を、後者は福岡県貝島太市氏からの浄財を経費にあてたものであった。
その外に地下貯水槽が、昭和五年に二箇、昭和八年に一箇、昭和十四年に一箇(各貯水量一〇〇立方米)設けられ、手動ガソリンポンプ(十六馬力)と相まって防火態勢を強化した。
以上の諸施設も昭和十四年には工事を完了している。
この時期の防火施設が、何処に重点を指向していたかは、当時定められた次の「熱田神宮非常時職員の心得」の一節がはっきりと物語っている。
「……火災其他如何ナル非常事変ニ際会スルトモ、当神宮職員タルモノハ先ツ本宮境内ノ保全ト警衛トニ専念努力シ、就中御本宮正殿ノ保全ニツキテハ及フ限リノ手段ヲ竭シコレヲ死守スルノ覚悟アルヲ要ス・・・・・・」

熱田神宮造営誌 その1

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熱田の大神様から熱田神宮の資料をいただきましたので、その一部を皆様にもシェアしたいと思います。

熱田神宮宮庁発行、熱田神宮昭和造営誌、非売品。御社の設計図から昭和の時代に行われた遷宮はじめ、昭和史が全て書かれている561ページにわたる資料です。

幼い頃に熱田の大神に御縁を結ばれ、今回の人生をスタートした私ですが、昨年は熱田神宮で何度もセミナーを開催させていただきました。会を重なれば重なるほど新な発見があり、自分も多くのことを学ばせていただいてます。そして、もっと深くを知って事をやっていきなさいということでしょうが、さらに深くを知るための資料まで与えられました。与えられたものには、大神や過去で熱田神宮を守っていらっしゃった神職の方々や関係者の方々の想いがいっぱい詰まっていて、魂に響いてきます。

以下、終戦直後の様子が記された部分を抜粋します。

終戦

昭和二十年八月十五日 終戦

混乱と虚脱の中にあって、神宮当局が生命に代えてもやりとげねばならぬ一事があった。終戦と同時に当然上陸を予想される占領軍から、如何にして神宮を護り抜くかという事である。幸いにして占領軍から不当な干渉圧迫がなければよい。だが武力を背景にどの様な事態が起こるかを予想することは不可能であった。
既にこの年の七月初旬、政府首脳の間では伊勢、熱田両神宮を万一の場合に奉遷すべき方途について内々の検討が加えられていた。終戦の日、篠田権宮司が上京していたのは、もし本土が戦場になる場合について内務省との協議の為であった。篠田権宮司は終戦の報を聞くと同時に、内務省、宮内省と能う限りの協議を遂げて、即日帰名の途についた。翌十六日、神宮に帰着した篠田権宮司の報告にもとづき、緊急重大な措置が決定された。
八月二十一日、極秘の中に、長谷宮司が奉仕して、神儀奉遷の儀が行われた。奉遷の目的地は岐阜県水無神社、御料車は東海軍管区司令部から派遣された乗用車二台であった。
奉遷後約一カ月、占領軍も進駐も一段落しその動向も或る程度の見通しをつけることが出来た。九月十九日、再び御動座。篠田権宮司が奉仕して水無神社を後に無事熱田神宮に還座せられたのである。
この事に関しては、これ以上記述を避けたいと思う。宮司権宮司を始め神宮神職、関係者一同の当時の痛恨、恐懼の情は、到底筆の及ぶとことではないと考えられるからである。
ただ、木戸内大臣日記の昭和二十年七月三十一日の条に次の記述があることだけは、謹んで記録にとどめておきたい。

御召ニヨリ、午後一時二十分御前ニ伺候ス、大要左ノ如キ御話アリタリ・・・・・・・・・
伊勢ト熱田ノ神器ハ結局自分ノ身近カニ御移シテ、御守リスルノガ一番ヨイト思フ・・・・・・・・・万一ノ場合ニハ自分ガ御守リシテ、運命ヲ共ニスル外ナイト思フ、謹ミテ拝承云々

同年十二月十五日、連合軍総司令部から神社弾圧を目的とする「神道指令」覚書が出された。当神宮に対する国、県、市など一切の公的団体の如何なる援助も、この指令によってすべて断ち切られた。人心は極度に荒廃し、焼野原と化した熱田神社にとって、この指令は、瀕死の病人の頭上に仮借なく降り下された鉄槌の様な感じさえ抱かしめた。
だが、境内の到る処に瓦礫の山と化した悲惨な焼跡を露呈してはいたが、千古の緑を湛えた熱田の森は依然幽寂の姿をとどめていた。それにもまして、神霊の厳としてまします事実は、如何に世情が変わろうともいささかのゆるぎもなかった。さればこそ、言語を絶する悪条件の中から、早くも復興への槌音が力強く響き始めたのであった。
云うまでもなく、建築資材は皆無に近かった時である。復興の兆しは微かではあった。しかし、幸いにして焼失を免れた西門外の錬成道場(旧宮庁)この建物も六月九日の爆撃による爆風で相当の被害を蒙ってはいたが、応急修理の上この施設を仮宮庁とし、復興への足がかりとして、こうした非常に困難な事情の中に昭和二十年十一月から十二月にかけて、警衛課仮庁舎(十一月二十三日)、上知我麻神社(十二月十五日)、職員職舎(十一月十五日)など、いずれも仮建物ではあったがそれぞれの工事に着手し、戦災と同時に消えていた境内電灯線を開通せしめた(十一月二十四日)。又奉賽業務に事欠いてはとの配慮から設けられた神楽殿も名だけの天幕張りのものであったから早速角南技師等を招いて神楽殿の設計も開始した(十二月三日)。このように復興に寄せるすざましいばかりの意慾は次から次へと力強く果敢実行に移されていった。
昭和二十一年。元旦のみで百万以上の参拝者を見た戦前とは比べ様もないが、それでも正月五日間で四十万人の初詣に接した職員は奮い立った。
仮神饌所竣功(一月一日)、神知我麻神社竣功、遷座(一月四日)、高座結御子神社地鎮祭(四月四日)、警衛課上棟祭(同日)、同竣功祭(八月八日)仮神楽殿起工奉告祭(九月四日)、同新殿祭(十一月七日)。
中には、数少ない焼残りの建物を二棟三棟と集めて、一棟とするといった苦心の建物もあったが、まず緊急なもの、参拝者の要望するものを目標に、出来得る限りの方法をとって、一つ一つの仮建造物の工事が進められていった。
この年二月、官国幣社に関する官制廃止。一般の宗教と同じく、宗教法人成立届けを七月三十日県知事充宛て提出。同十一月十九日「宗教法人熱田神宮」の登記を完了。
同年十二月の職員数と昭和四十一年一月現在の職員数を参考までに対比すると次の様になる。当時の状況を窺う一端ともなろう。
宮司(一)権宮司(二)禰宜一四(宮掌以上二五)衛士六(一九)雇二(六)嘱託二(九)事務雇三(一〇)巫子三(一五)工手(一)工丁一(三)宮丁五(一三)技師〇(一)技手〇(一)事務員〇(五)養成所生徒(一三)
計三九(一二四)
昭和二十二年。食べるものも無く、着るものも無く、日々の朝夕に神前に献る神饌の一部を、境内焼跡の菜園で職員が懸命に栽培するのが日課の一つであった。
だが、とにもかくにも復興の手は一日たりともゆるめられることはなかった。
高座結御子神社仮殿竣功、遷座祭(三月二十七日)、下知我麻神社竣功(四月九日)、鈴之御前社竣功、還座祭(七月二十五日)、総代会に於いて名古屋市田淵復興局長井上建築課長等都市計画問題について懇談(九月一日)、菅原社竣功、還座祭(九月十九日)、大国主社、事代主社竣功、還座祭(十二月十四日)。
この頃、神宮当局へは各方面から相ついで、熱田神宮の諸施設復興の要望、懇請が寄せられていた。中には社殿その他再興の用材を献納する人々も現れて来た。又昭和二十三年に竣功した茶席清雪庵、六友軒などの様に、献茶会という団体を組織して、施設を献納する場合もあった。
遠近、多寡を問わず、復興の一助にと真心からの浄財が寄せられ来た。いよいよ神宮として、復興への本格的な活動を展開すべき機運が熟して来たかの感が強くなっていった
しかし、神宮では、物心共に荒れ果て、日々の糧に苦しむ市民生活が一応の安定を見るまでは、積極的な復興造営活動を控える、という方針をとった。恐らくは、大神の御心も民生の安定向上をこそお望みに違いないと拝察申し上げたからに外ならなかった。日々の奉仕の度毎に、最低限の仮社殿で雨露をお凌ぎいただかねばならぬ申し訳なさに身を切られる想いを重ねながら、ひたすら復興の機の近いことを祈った。
こうして悪夢の様な戦後の二年、三年が過ぎた。そしてやがて本格的な造営への胎動が兆し始めた。
昭和初年以降数次にわたる、造営、拡張、整理は、既に述べた通り、云わば国家の力による主事業を軸として営まれたものであった。だが、来るべき造営の原動力は全く全国崇敬者一人一人が大神へ捧げ奉る真心の結集そのもの以外にはあり得ない。その困難さはもとよりであるが、御鎮座以来千八百年、いっときと雖も曇り給うことのなかった、無辺の神徳を、国民一人一人の胸の奥底まで、照り徹らせる又とない大切な機会でもあったのである。
云わず語らずの裡に、関係者一同は心底深く決意を秘めて、徐々に「熱田神宮造営会」結成への準備が育まれつつもあった。(抜粋終了)

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皆さまいつもありがとうございます
日頃の感謝をこめてハートをおくります

英語好きな方は知っているかもしれませんが、英語の「heart(心)」はラテン語の「cord」からきています。 「core」=「cord」で「中心」ですし、accordは「~に心を合わせること」、その名詞は「一致」。「cordiality」は「真心」。「discord」は「心が離れる」。「record」は再び心に呼び戻す➡記録する。

日本の刀や建築にもハートマークがあちこちありますよね。これ、日本では「猪目(いのめ)」という名前がきちんとあるのですが、時代とともにこの名が消えていってしまったようです。

以下、猪目・ハート型・紋について詳しく説明されている記事がありましたので御紹介したいと思います。

猪目の模様・紋の由来・意味は?読み方、懸魚はハート型に見える?

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今年の節分は、元伊勢・籠神社の御祭神である天火明命(あめのほあかりのみこと)様の三世孫である天忍人命様の御子の御魂をお持ちの方と関係者6名で祈りを捧げ一緒に時間を過ごしました。真名井に御縁深き88歳のおばあちゃま、徹底的に鍛え上げたバリバリの神能者なのですが、深い御縁を感じています。他の皆様がお帰りになる時「あなたはちょっと残って下さい」と言われ、その後話すこと数時間。神からの御言葉もいただきました。これからも頑張りたいと思います。

『元伊勢 籠神社の祝部海部直系図によると 三代 倭宿禰命(やまとすくねのみこと)様の時、神武天皇と記されているが・・・当時の心中をお聞かせ願いたい』と、このおばあちゃまがお訊ねになった時のこと・・・

倭宿禰命様は以下のようにお答えになったそうです。

『我が国は神国であった。多数の神々の國納めによって守り護られ、神国となって国の基礎をかためた。天の神の勅により、天火明命は国しずめと国納め・国平を預かっていた。天火明命とニニギノ命は兄弟であったが、同じく勢力を広げていた。半島より勢力を伸ばしてきた神武勢力に、戦いを止め無条件にて国政をゆずったのだ。天火明命を支えてきた神々は、全てを放棄し「貝」になることを重んじて、陰ながら国家の繁栄、民の幸福を祈り続ける事を誓った。当時、直面している神々の心境は口に出す事はできず、すべてを許し、大きな弾圧に耐えていた。生活も一変し今まで何を・誰を、恨むことなく、天地自然の恩恵に感謝に明け暮れていたものが、風説に怯えなくてはならない。人を信じることのできないまでに変化していったのです。また勝ったからとて、安らかな人生を過ごせるものではない。必ず政権を奪われる事の恐怖が、人を国を苦しめ、また自分が苦しみに陥るのです。それが悪心と化し、血を見るようにもなる。この時元伊勢の二代・三代は国の安泰と当座の心の休まりを、一本の木に託し、一生懸命に無心に入刀し観音を彫刻することに成った。これの観世音菩薩に全心身を投じて祈願・祈念したのです。観音は如何なる運命にさらされても、観音の宿命・使命を全うしてくれていた。今もなお・・・』

真名井の観音様は、当初真名井の海岸の岩の中に安置され、土地の人々を始め、大勢の祈願を成就なされ、参拝者も絶えなかったそうです。土地柄とは言え度々の海の時化に波にさらわれ、漂流し岸辺に打ち上げられ、奇特な方に拾われ、岩屋に戻るも亦時化にあい、日本海の荒波に漂流すること度々、1200年余り。海中にいながらも与えられた使命をおつくしになったそうです。舞鶴の岸辺で波に打ち上げられて居るところを、徳川家康公の計らいで佐々木城前のお堂に安置され、武士の守護神となり、いつき祀られていました。そうして城解とともに笹尾村少林寺に。佐々木城主並びに武士が寺の僧となり観音様を安置したが、笹尾寺には聖徳太子の一刀彫り聖観音様がお祀りされていたので、武士が観音様と檀家へ下ったのが出口家の初代とされています。この出口家の方がこのおばあちゃまで、真名井の観音様は今出口家に安置されてますので京都の元岩屋には現在観音像はありませんが、跡地には今もエネルギーがこもっており真名井の地を守り続けてくださっています。

籠神社出身の真名井御前様(空海の弟子であり淳和天皇の后であった方)は、もちろんこのおばあちゃまととても縁深きお方。真名井御前様は、この観音様のことをおばあちゃまにお願いしていますし、いろいろなメッセージもいただいています。真名井御前様、おばあちゃまに以下のようにおっしゃってたみたい。

『私の幼少の頃、貴女が観音様(聖徳太子一刀彫り)にお祖母さんに背負われ、手を引かれ参拝したように私も父母・祖母に連れられ、毎日毎日岩屋観音にお詣りしていたのです。観音様の前には、お灯り・お香・お供物の止む間が無かったと思う。今思い出しては幼少の頃の真名井は懐かしいです。観音様の信仰者が多く御神徳を頂いて帰り、またお詣りに来るのです。明日と言わず日に幾度となく祈願に来る人もあり、観音様あっての真名井になっていたのです。遥か昔のことが二千年もたっても今貴女の信仰の力でよみがえってまいります。こんなに嬉しいことはありません。私共の心の中に観音は生きています。姿無き身となった今も観音に護られ、導かれ自分に与えられし使命に精一杯精進致しています。貴方が私共に気づいて下さり、度々神呪寺に出かけお詣りしていただけ本当に嬉しいです。・・・・・・全ての起点は真名井です。神々様の多くの発祥の地は真名井の地です。』

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今朝神棚でお祈りをしている時に感じた「八面体・球体」イメージについて言葉にしてみます。

「中今(なかいま)」という言葉がありますが、「今」とは次元的に意義を異にします。「今」は単に現在とか現世という時間的な意味しかありませんが「中今(なかいま)」は時間的意味に加え、空間的中心の意味も併有する複合的意義を持ちます。

時間とは、時の流れの循環で一つの円にあり、終始無く、逆に言えば終始同時に存在している無限の円環・循環・流動体、今ここにしかない「永遠なるイマ」です。

時間以外の空間的意義には、物質的空間、霊的空間、位相的空間があり、物質的空間に観た「ナカ」は、天・人・地、「霊的空間」に観た「ナカ」は、神界(高天原)・顕界(中ツ国)・幽界の(根ノ国)の三界。位相的空間に観た「ナカ」は、静的存在を意味する中心とか中点という観点ではなく、動的存在を表したり作用の状態を表す中位・中相という「ナカ」であり、陽(タカミムスビ)・中(ミナカヌシ)・陰((カミムスビ))で表わされます。生命的には、先祖と自分と子孫。先祖とはミオヤ(神)に通じる親(過去)、孫とはミコト(命)に繋がる子(未来)です。その中間にあたる自分とは、陽(父)と陰(母)との結び為され中相的な存在。

簡単に整理すると

時間的には・・・過去・現在・未来
生命的には・・・先祖・自分・子孫
空間的には・・・天・人・地
霊的には・・・神・顕・幽
位相的には・・・陽・中・陰

つまり「中今(ナカイマ)という思想は立体的なもの。古神道の根幹・中核なる「中今(ナカイマ)」原理は、中立・中極を為す存在から産まれ出て、その中極から産まれ出た八百万の神々も中極であり、そのまた分霊である我々も中極に結ばれている「ナカイマ」的存在です。

アメノヒツクノカミから降ろされた日月神示の中に「中今(ナカイマ)」のことがよく示されている言葉がありますので
下に記します。

「天地不二  神人合一
天(アメ)は地(ツチ)なり
地(ツチ)は天(アメ)なり
不二なり   アメツチなり
神は人なり  人は神なり
一体なり   カミヒトなり
神・幽・顕を通じ   過・現・未を一貫して
神と人との大和合   霊界と現界との大和合をなし
顕・幽・神   一体大和楽の光の国実現を以って教旨とせよ」

「天地不二」・・・空間的合一観である「ナカイマ」
「神人合一」・・・霊的一体観である「ナカイマ」
「アメはツチなり」「ツチはアメなり」・・・霊的存在=物質的存在
「神は人なり」「人は神なり」・・・大宇宙=小宇宙
「神・幽・顕を通じ   過・現・未を一貫して  神と人との大和合   霊界と現界との大和合をなし   顕・幽・神  一体大和楽の光の国の実現」・・・霊的空間「ナカイマ」と通じ、過・現・未という時間的「ナカイマ」を一貫し、神と人とが共に大和楽という光の国である高次元の世界を創り為すということである。

う~ん、言葉では説明難しいです(*^-^*)あまり言葉にとらわれず、感覚的に感じるのがいいかもですね。
宇宙を内包して「中今」に生きましょう(^^♪

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今朝魂に響いてきた言葉を記しておきます。

爾(なんじ)・・・

まずは「禰宜(ねぎ)」について。御存知のように「禰宜」とは神社における神職の職名の一つです。普通は、上から「宮司」「禰宜」「権禰宜」という順で、「禰宜」は「宮司」を補佐する立場にあります。「禰宜」という言葉は、「ねぎらう」の語源である「労(ね)ぐの連用形」から来た言葉のようですが、「ねぐ」という言葉が目上の人に使われる場合は「祈ぐ」と書かれ、神の心を和ませ加護を願うという、祈りの意味になります。

ここまでの意味はわりと知られていること。今日は、その先のもっと深い意味です。

雄略天皇22年11月新嘗祭の夜、伊勢神宮の祭祀を司っていた倭姫命さまが受けられた天照皇大御神さま・豊受大神さまからの御託宣を起源とする「六根清浄」の祝詞の中にありますように「人は則(すなはち)天下(あめがした)の神物(みたまもの)なり」(人は地上に現れたる神の子であり神の分霊である)。

神からみたら、「互いに切磋琢磨し、より素晴らしき人・魂と成るよう」と「荒奇幸和(こうきこうわ)の四魂(しこん)を与え、「安らかならん」と、現世(うつしよ)に産み出した我が子です。「四魂(しこん)」は「紫金(しこん)」です。仏教で云う処の、の如来の出ずる時に現れ給(たもう)た瑞(ずい)としての「閻浮壇金(えんぶだんごん)」のことです。「閻浮壇金(えんぶだんごん)」は、仏教の経典中にしばしばみられる想像上の金の名称で、砂金の中でも最高の物で、やや紫色を帯びた金色をしていると言われています。

人の魂の成り立ちについて、神道の「一霊四魂」という解釈の仕方がありますが、四魂「荒魂(あらみたま)・奇魂(くしみたま)・幸魂(さきみたま)・和魂(にぎみたま)」があり、それらを直霊(なおひ)という一つの霊がコントロールしていて、四魂がうまくバランスが取れまとまっていると「和」に治まります。神が人に向けて「なんじ」と呼ぶ時「四魂」を分け与えた分身です。この「なんじ」が「爾(なんじ)」です。

爾(なんじ)

内側に書かれている四つの「メ」の字。これがそれぞれ「荒魂・奇魂・幸魂・和魂」を指します。

「神の子としての爾(なんじ)」が「禰宜(ねぎ)」の「爾(ね)」。「禰宜(ねぎ)」という職務とは、この四魂の「和」の在り方を「示す」のです。
「爾(なんじ)」、平らかなる天より降(くだ)りたる、安らかなる直霊(なおひ)が、四魂となりて生命を産み殖やして行く。「爾(なんじ)」は、「神の子」としての「人」に対する「神の呼び声」なのです。

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毎日寒い日々が続いていますが、皆さまお元気でしょうか?私は、日々いろいろな方々に御縁をいただいたり、祈りを捧げながら、ゆるゆると生きています(^^)/

昨年末に起こった江東区の富岡八幡宮での事について記すつもりはなかったのですが、やっと記す気になりましたので記録にのこしておきたいと思います。あの事件が起こった数時間後に私はピンポイントで江東区に行くことになっていました。。事件のことは何も知らなかったのですが、既に行く事になっており、準備完了で出発する寸前になり、日本のあちこちからメールが入りました。「みゆきさん、富岡八幡宮のこと知ってる!?」と。知らせを聞いてびっくりでした。いつものことですが、表には見えてないし知られていないような水面下でゴタゴタが起こっている地や修正すべきことがある地や浄化が必要な地などによく呼ばれ、事に取り組むことになります。当日は警察が入りゴタゴタ状態でしたので、周りから祈るという形で終えました。そして、今年に入りお正月、また江東区に行く流れにありました。今度は神社でしっかりと祈り、神職の方々とお話しするために行きました。行って観じたことは、、思った以上にエネルギー的に落ちてしまっていたこと。まだお正月から一週間だというのに人もパラパラしかいないし、全体に悲しいエネルギーが漂ってました。精一杯の祈りを捧げ、社務所で神職の方々や巫女さんたちへ神々の想いや応援メッセージを伝え帰ってきました。

心身の状態を整え万全の状態で行く準備を整えていたのですが、前日急遽睡眠がほぼ取れない状況になってしまったことがあり体が弱っていたせいか?思った以上に打撃を受けてしまったようで、神社を後にして数時間後、腹痛と下痢。肉体は浄化器官であり、あまりに強い負のエネルギーにさらされると、頭痛・発熱・腹痛・下痢・吐き気などを起こし体を調整しようとします。私の場合、たいていは頭痛だけで、しかも数分~1日ぐらいで浄化できるので、寝込むこともないしそれほど苦しいとかの状態にはならないのですが、帰宅して整体の先生に診ていただいたところ、「体が打撃を受けた為、皮膚機能停止し、その影響で内蔵機能低下してる」と言われました。負のエネルギーを受けて対処できず皮膚機能停止&臓器機能低下しているようでは、本当にまだまだです(*_*;

富岡八幡宮、大切な神社です。私も、良き氣に戻ることを応援していますし、皆さまの清い祈りの力が必要とされていると思います。

私は「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」の祝詞が好きで、よく神棚の前で唱えるのですが、六根(ろっこん・むね)=目・耳・鼻・口・身・意を清浄にすれば、五臓すなわち肺臓・心臓・肝臓・腎臓・脾臓が健康で一切の氣枯(けが)れもなく、御神霊が身体に入ることになり、肉体を通し天意を表すことになります。それは神羅万象全てと一体となることであり、神羅万象と一体となれば天地の神と同根になることであり、それ故に万物の霊と同体であり、万物の霊と同体なるが故に為すところ一切成就する、という非常に素晴らしい祝詞です。知らず識らずの間に犯した罪・咎・穢れも、身を清めるこの六根清浄の祝詞を唱える修法で、心身スッキリすることができます。

この宇宙にある全ての存在、植物も動物も人間もエネルギーの境はないので、お互いに良くも悪くも影響し合っています。六根清浄、常に良きエネルギーを発し、周りの全ての命と触れ合うことができるようにしたいものです。

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神道の神髄や日本人の心の在り方などを外国の方々に説明したい時が多々あるのですが、日本語で表現すれば上手く伝わることも、言語が違うと微妙なニュアンスが違ってしまうため、非常に難しいと感じています。英語ではどうにも表現しにくい部分があります。

「惟神(かんながら)」を説明する時の参考になる資料があるので紹介したいと思います。

「わかりやすい神道」
By 山本行恭(椿大神社 宮司)・翻訳 植村昌夫

「Kannagara」

Kannagara has been interpreted in various ways,
such as ”according to the kami,” ”kami just as
they are,” ”as a kami,”because of being a kami,”and” the
kami's will, just as it is.” ”Kannagara” is ”kan +nagara”.
”Kan” is a variant of ”kami”, while ”nagara” is a word whose
approximate meaning is "as" or "according to "or "because of".
The expression kannagara no michi'(the way in accordance with
the will of the kami) signifies Shinto itself.
Kannagara is not itself a religion, although it is at the heart of
Shinto.  It is best understood as a non-exclusive principle of
universalism that can exist in all religons and should exist as a
self-corrective idea that calls every historical religion back to its
fundamental roots and to the basic insight that the finest results
for life are achieved when a person lives "according to the
Kami". For this reason, a Shinto believer will not reject something
just because it is not Shinto. A Shinto believer can be at home
with any kami that shows the power to elevate his soul. A Shito
believer who denounces other religions is not a real Shinto
believer. He or she can be at home in a Shinto shrine at New Year, a Buddhist Templle at the festival for the souls of the ancestors or a Christian Church on Christmas Eve. All of these make individual sense. They are authentic. They complemet each other. This
approach to religion can be called the kannagara understanding of the place of religion in human life, human society and in
human culture in general. Religions should try to realize the spirit
of kannagara in order to remain true to themselves.
Kannagara need not be understood as unique to the Japanese but is a concept with universal significance and appplicability.
Kannagara has to do with spirit, and with bringing the human spirit and activities into line with the spirit of Great Nature.

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